「冬子」  T
 私の本当の名前は冬子。しかし今は皆「春」と呼ぶ。
 「春」は本当は私の娘の名前。その娘は今はもういない。七年前に五歳で死んだ。交通事故。一瞬のうちに彼女は天国へ行ってしまった。
 春が生まれたのは私が十九歳の時だった。父親は二人。どちらか判らないのではなく、どちらもが父親だと私は思っている。今はどちらとも会う事もない。多分、自分が父親であることも知らない。きっと何処かでちゃんと結婚して本当に父親に成っているだろう。
 今私は男と暮らしている。しかし彼は恋人でも夫でもない。ただの同居人。彼と初めて会ったのは六年程前だ。
 娘を失って私は物語を書き始めた。昔から書くことは好きだった。しかしそれを職業にするなどとは思ったこともなかった。娘を失い、より所を失くした私は、書くことで自分を支える術を覚えた。そして娘の名前で物を書くことが私に思いもよらなかった喜びを与えてくれた。彼女が大きくなり体験するはずだった喜びや悲しみを、私がトレースする。嘘の人生。それは罪のない嘘だった。
 そうして書き溜めたものを何点か仕上げ、私は小さな出版社を回った。その時、同じように漫画の原稿を持って来ていた彼に初めて出逢った。

 その日もある出版社で係りの者が居ないと言って体よく追い返された私は、出版社を出て一番初めに目についたティールームに入った。そこで紅茶を頼み、窓の外を通り過ぎる人達を、見るとは無しに眺めながらそれを飲んだ。そしてその人々の中に彼を見つけた。彼も私を窓越しに見つけると手を振り笑顔を作って店に入って来た。
 「ここに座ってもいい?」彼が言う。私は曖昧に頷いた。彼はウエイトレスにコーヒーを注文すると私の前に座った。
 「何軒回ったの?」
 私が答える。「今日は二件目よ」
 「どうだった?」
 私は首を横に振る。
 それを見て彼が言う。「僕もだよ。君は小説?」私が頷く。
 「僕は漫画なんだ。絵を描くことが好きでね。でも本当は漫画なんかじゃなくてイラストで行きたいんだけど、その方がなかなか食べられなくってね」
 彼のコーヒーが運ばれて来て、彼は何も入れずにそれを飲んだ。そしてカップを置くと言う。
 「そうだ、僕、村上正人って言うんだ」
 「私、遠藤春」ペンネームで答えた。
 「春ちゃんって言うんだ。いい名前だね」そう言って彼は、作り笑いじゃなく微笑んだ。それに対して私も作り笑いじゃなく微笑んで返した。その後他愛もないことを話し、お互いの飲み物が無くなったところで店を出た。そして手を振って別れた。それだけだった。

 次に彼に会ったのはそれから一年程経ってからだった。

 街を歩いていた私は、小さな画廊の前の看板に小さく書かれた村上正人という名前を見つけた。私はまさかと思ったが何となく気になってその画廊に入ってみた。それは何人もの若い作家が数点ずつ作品を持ち寄って開いている展覧会だった。
 村上正人と書かれた作品も五点有った。私はその絵の前であの村上正人なのかどうか判じかねていた。その時後ろから彼が声を掛けてきた。
 「春ちゃん。春ちゃんじゃないの?」
 振り向くと、あの時より少し上等そうな服を着た彼が笑って立っていた。
 「やっぱりあなただったのね」彼は微笑んで見せた。
 「すごい出世なんじゃないの?」私がそう言うと、彼は照れ笑いを浮かべて言う。
 「すごく無理したんだよ。何日も食べるものをけちったりしてさ」
 私はその冗談に笑った。
 彼も嬉しそうに笑って言う。「どう?僕の絵」
 私はもう一度絵の方を向き直って言う。「良く判らない。でもあなた普通の人と少し感性が違うのかしら?いいのか悪いのかは判らないけど、私は嫌いじゃないわ。でも少し寂しいのかな?」
 その絵は、綺麗な西洋人の女性の肖像画、それと青い空に白い雲がポッカリ浮かんだ物のシリーズで、空が三点と女性が二点有った。
 振り向くと彼が頷いて居た。そして彼が誘った。「お茶でも飲まない?」
 私は別に急ぐ用が無かったので頷く。彼は画廊にいた他の人に声を掛けるとそこを出る。私も付いて出た。
 喫茶店に入って彼がコーヒーを二つ注文する。私は慌てて止める。
 「私はミルクティーにして」
 彼が言い直す。「コーヒーとミルクテーを一つづつ」そう言って席に付いた。
 「そう言えばあの時も紅茶を飲んでたね」
 「そう、コーヒーが苦手なのよ」
 「珍しいね。僕なんか一日に十杯位飲むよ」私は曖昧に笑って頷く。
 「春ちゃんはどうして僕が寂しいって思ったんだろう?」彼が優しい目で尋ねた。
 私は少し考えて答える。「あなたの描いた女の人の目がそうだったのかも知れない。それとあの空の色が何かを拒絶していたからかも知れないわ」
 彼はそれに対しては何も言わずに、運ばれて来たコーヒーを、やはり何も入れずに飲んだ。私は紅茶にミルクを入れてかき混ぜる。彼は気を悪くしたのだろうか。少し気にはなったが、それに対しては深く考えないことにした。
 彼はコーヒーを一口飲んでカップを置くと、少し真面目な声で言った。
 「春ちゃんも少し変わってのかな?」
 「判らないわ」
 彼が頷き、声の調子をいつもの様子に戻して言う。「ところで春ちゃんの小説の方はどうなの?」
 「何とか少しづつだけど書いてる。何点かは少女雑誌やレディースコミックにも載ったのよ」
 「少女雑誌にレディースコミックか。だったら僕が知らなくってもしかたないね」
 私は笑う。「それはそうよ。あんなのあなたが読んでたら気持悪いわよ」
 「そりゃそうだ」彼はそう言って笑った。
 「ところで春ちゃん、今日は何してたの?」
 「私、今部屋を探しているのよ。だから情報誌でも買って下調べでもしようかと思って。そうしたらさっきの画廊の前であなたの名前を見つけたから、もしかしてって思って入ってみたの」
 彼が頷いて言う。「部屋って住む所?それとも仕事場?」
 「住む所よ。だって仕事場って言ったって私の場合、ワープロ一つ置くところがあればいいんですもの」
 彼はコーヒーを口に運び、カップを置くと尋ねる。「今住んでる所は?」
 私も紅茶を一口飲んで答える。「追い出されちゃうのよ」
 「家賃を溜めたんだろう」
 「まさか。今小さなアパートに住んでるんだけど、大家さんがそれを取り壊してマンションに建て直すんだって。それで立ち退き料もちょっとだけれど貰えるし、小さなマンションにでも移ろうかなって思って」
 「家賃はどの位の予算なの?」彼が尋ねた。
 「あなた、不動産屋もしているの?」
 彼が笑う。「そんな訳じゃないけど。ちょっと心当たりがあるんだ」
 私は答えることにした。「6〜7万ってとこかしら?」
 「じゃあ、ちょうどいいのがある。駅からもそう遠くないし、環境も抜群だ」そう言って郊外の駅の名前を上げた。
 確かに良い所だった。彼が続ける。
 「八帖のベッドルームと十二帖のリビングルーム。それにキッチンも小さいけれどちゃんとある」
 「それ、素敵ね。でもそれだと保証金が高いでしょう?立ち退き料って言ってもそんなには貰えないわ」
 「いや、保証金は無しでいい。それに家賃は五万」
 私は首を振る。「話が巧すぎるわ」
 彼が頷いて言う。「確かに。だから問題が無くも無いんだ」
 私も頷いて言う。「やっぱり。何か、まさか幽霊なんかが出るなんて言うんじゃないでしょうね?」
 彼が頷く。「そう。でも出るのは幽霊なんかじゃない。僕なんだ」
 私は話が良く見えなかった。「それ、どう言う事?」
 彼が言う。「実は同居人を探してるんだ。今一緒に居る奴が結婚して今月中で出て行っちゃうんだ。それで来月から僕が一人で今の家賃を全部払わなきゃならなく成るって言う事。全部で三つのベッドルームとリビングなんだけど、一つは僕の仕事場として使っていて、もう一つはプライベートルームとして使ってる。家賃が全部で十五万で、僕が十万、奴が五万だった。部屋にはちゃんと鍵だってかかるし、リビングやその他の部分の掃除は交代でやってた。同じ条件でどうだろう?」
 私は首を振る。「駄目よ。だってあなた男でしょう。皆に変に思われちゃうわよ」
 「でもプライベートルームは別なわけだし、表札はオフィスの形で掛かってるんだから。君もオフィス春とかって言う名前で、事務所代わりに使えばいいじゃないか。とにかく一度見においでよ。とってもいい所なんだから。誰かみつからないと僕も出て行かなくっちゃならなくなるんだ。今の僕には後五万の出費は辛いからね」
 私は首を横に振る。彼はそれを見ないふりで続けた。「そうだ、ねっ、今日見においでよ。僕も後一時間位で帰れるし、案内するよ。ねっ。ねっ。」
 彼はとてもしつこく私を誘った。私はとうとう根負けして言う。「判ったわ。でも見るだけよ」
 彼はホッとした様に笑うと言った。「絶対気に入るよ。じゃあ、四時頃もう一度来てくれる?」
 「判ったわ」
 私はそう言ってカップに残った紅茶を飲み干した。彼も残りのコーヒーを飲み干すと、伝票を持って立ち上がる。
 「割り勘にしましょうよ」私が彼の背中に向かって言う。
 彼は私に背を向けたまま伝票を振って見せると言った。「僕が奢るよ。だって君は今日は、僕のお客さんなんだから」
 私が言う。「あなたの絵を買える程お金なんて持ってないわよ」
 彼が振り向いて笑ってみせた。そしてレジでお金を払った。私は彼に礼を言って喫茶店の前で別れた。

 私は一人で街をブラブラ歩き、大きな書店で賃貸情報誌を立ち読みする。大体ワンルームで保証金が立ち退き料と同じ位だ。そして思っていたように家賃は六〜七万。でも皆駅から遠かったりバスに乗り継いだりする必要が有った。私は一人でつぶやく。「これは大変だ」そして賃貸情報誌を元通りに置いてまた歩いた。
 ちょうど良い位の時間に成ったところで、私はしゃれたケーキ屋でフルーツパイを二つ買い、約束の時間に彼の画廊へ戻った。

 彼はすっかり用意をすませて私を待っていた。
 「来ないかと思ったよ」
 「約束は守る主義なの」
 彼は笑って頷いた。

 地下鉄に乗って二十分程で彼の言った駅に着いた。駅を出て五分程歩くと彼のマンションがあった。エレベーターで六階に上がる。回廊のような廊下を突き当たりまで歩くと、オフィス正人と書かれた表札の掛かった彼の部屋があった。
 「なるほど。それで私はオフィス春だったのね」
 彼は笑って鍵をあけるとドアを開け、私を招き入れた。微かにシンナーの臭いがする。
 「まさかあなた、シンナー遊びなんてしてるんじゃないでしょうね」
 「まさか。絵の具の溶剤の臭いだよ。今描いてるのがたまたま油性の絵の具だから。気にしないで。いつもじゃないから」
 私は中に入って驚く。リビングの壁が一面ガラス戸になっていて、そこから広いベランダになっていた。
 「南に向いてるから一日中明るいよ」彼が言う。そして彼の友人の使っている部屋のドアを開けた。
 「ここが君の部屋になる」
 「まだ決めてないってば」私はそう言いながらその部屋をのぞく。そこにも大きな窓があってしゃれた手すりが付いていた。
 「さっきの窓が南だったら、ここは東に窓があるって言う事かしら?」
 「そうだよ。朝日が入るんだ」
 そこは少し縦に長いが四角い部屋でとても使い易そうだった。床はフローリングで、今使っている人はベッドとデスクを置いているだけだ。私の持っている物の数とほとんど変わらない。一方の壁面には作り付けのクローゼットがあって収納スペースはたっぷり有った。
 「ついでに僕の部屋も見る?」そう言って彼は自分の部屋の扉を開ける。さっきの部屋の隣で、少し小さめの部屋だった。
 「ここが仕事場。そしてこの中から僕のプライベートルームと繋がって居るんだ」そう言ってもう一つの扉を開けた。
 仕事場には沢山の絵を描く為の道具がきちんと並べられていた。そして見える範囲で野彼のベッドルームも思ったよりきちんと整頓されていて割とセンスの良い家具が選ばれていた。
 私はリビングに出てテーブルの前に腰掛け、持ってきたパイの包みを開ける。
 「食べましょう」私がそう言うと、彼はキッチンでコーヒーと紅茶の用意をした。
 それを待つ間私は、窓の外を眺めていた。目前に大きな緑地があってとても美しい風景だった。彼がとても良い所だと言った意味が良く判った。絵を描く人にとっては持って来いのロケーションだ。
 彼が両手にカップを持って入って来る。それをテーブルに注意深く置くと言った。
 「春には桜、夏は緑、秋には紅葉で、今年の冬にはあの木に雪が積もって真白な世界が広がったんだよ」
 私はその風景を思い浮かべていた。彼は仕事部屋に入って四枚の絵を持って来ると、窓の下にそれを立て掛ける。
 「ほら、こんな感じ」
 それはその窓から見える四季の風景だった。私は椅子に腰掛けたまま、持ってきたパイを頬張りながらそれを見る。確かに素晴らしい風景だった。
 「どう?いい所だろう?」私は頷く。しかし彼とそこに住むことには抵抗があった。私はそのことを正直に彼に言う。
 「とっても素敵なお部屋だわ。でも私はあなたの事を何も知らない。会ったのは今日が二度目で、私はあなたの年すら知らないのよ」彼は頷くと、勝手に自己紹介を始めた。
 「僕は今二十六歳。蠍座のB型。生まれたのは福岡で、高校までそこで過ごした。その後こちらへ来たんだ。それでこっちの美大を卒業して、アルバイトをしながら絵を描き続けている。最近やっと少しづつだが売れる絵を描けるようになった。幾つかの雑誌の挿絵の連載を貰えたので今の家賃は払えてる。兄弟は兄と弟との三人兄弟。母は三年前にガンで他界した。父は兄夫婦と一緒に田舎で暮らしてる。父は中学の、そして兄は高校の教師だ。そして弟は今アメリカへ行って音楽の勉強をしている。でもあいつのことだから遊んでばかりいると思うけどね。自己紹介ってこんなものなのかな?そうだ、僕にはガールフレンドが一人居る。でも彼女はここには来ない。そう言う約束なんだ。そう言うのってあんまり好きじゃない」
 「そう言うのって、どう言う事?」
 「彼女が僕の部屋に居るのが当たり前だとか、僕のベッドで彼女と寝るだとか、そう言うの」
 私は首を傾げた。「私には良く判らないわ」
 彼が言う。「つまりここへは仕事関係の人以外来ないって言う事だよ」私は頷いた。
 「どう?僕の事は大体判った?」
 私はもう一度頷く。そして言う。「私の事も話さなきゃいけないのかしら?」
 彼は首を横に振る。「別に構わないよ。君は泥棒しそうには見えないし、まさか僕をレイプしたりしないだろう?」
 「もちろんよ。でも彼女が女性を同居人にしたって知ったら嫌な思いをするって思うな」私は窓の外から彼の方に視線を戻してそう言った。
 彼は表情を変えずに答える。「そう言う面度臭いのって苦手なんだ。もし、そんなふうになったら別れちゃうよ」
 「愛してないの?」私が尋ねた。
 彼はとても曖昧な表情でそれに答える。「判らないんだ。彼女と居ると確かに楽しいしいとおしくもある。彼女を抱いている時なんか特にね。誰にも渡したくないって思うよ。でもここに帰って来ると、それで終わりなんだ。いつもの一人の僕に戻ってしまう。自分だけの僕で居ることが心地いいのかな。ここで彼女と暮らすなんて考えられないんだ」
 「じゃあ、あなたがここを出て彼女と結婚すればいいんじゃないの?」
 彼は首を振る。「そう言う問題じゃないんだ。僕の奥底の、根本に関わる問題だと思う」
 私は彼の描いた四季の絵を見る。そこには寂しさを友とする、どこかが欠けた彼が描き出されているように思えた。
 「ねえ、どうして私なの?どうして私にここを勧めてるの?」
 彼は少し考えて言った。「春ちゃんならいいように思ったんだ。何となくだけど、春ちゃんならここにいても僕の根本は揺らがない。そんなふうに思えるんだ」
 「でも、私と居ることでどんな波風が立つか判らないわよ」
 「構わないさ。僕は僕の根本に関わらないことでの波風に関しては、そんなに面倒臭がりじゃないと思う。相手が僕のある部分に入り込んでさえ来なければ問題無いんだ。多分僕は根本的に弱い部分を持って居るんだと思う。でも君は多分その部分に踏み込むことはない。そんな風に思えるんだ」
 私は首を振る。
 彼が続ける。「確かに普通なら君が言ったように彼女と結婚してここで住むだろう。収入的に無理ならもっと小さなマンションに移ればいいだけのことだからね。でも僕は今、そう考えられないんだ。多分彼女の事を愛していると思う。でも愛していることと僕の生活は別のような気がするんだ」
 「変な人」私が言う。
 彼は微笑んで見せると言った。「春ちゃんもきっとそうなんじゃないかな?」
 私はそれに対して何も答えなかった。
 しばらくして彼が言った。「二〜三日考えみてよ。今月一杯、後一週間で奴は出て行くし、そうしたらいつでも部屋は使えるから。もし春ちゃんの恋人が、そんな危険なことはダメだって言うんじゃなかったらね」
 私は首を横に振る。「そんな人は居ないわ。そしてダメだって言う家族も居ない。私って独りぼっちなのよ。でも、だからって言って何をしてもいいって言うものじゃないし。良く考えてみるわ」
 彼は頷いて立ち上がると、絵の前に立って言う。「春ちゃんはどれが一番好き?」
 私は即座に答える。「冬よ」
 彼が微笑んで言う。「やっぱりね。でも、春ちゃんだからこの春の絵を上げるよ。貰ってくれないかな?」
 「本当?いいの?」
 「うん。何時か値打ちが出るかも知れない。僕が死んだずっと後でかも知れないけどね」
 「だったら私も死んでるわ。だって私の方が少しだけど年上よ」
 彼は何も言わずに微笑んだ。
 私は彼に電話番号の入った自宅の名刺を渡して言う。「二〜三日したら電話してみて。それまでに考えておくから」
 彼が言う。「展覧会も後三日だし、もし良かったらまた観に来てよ」
 私は頷いて席を立ち、玄関に向かった。彼も立ち上がる。私は振り返って言う。
 「私、本名は冬子って言うの」
 彼がとても素敵に微笑んで見せると言った。「どちらもいい名前だ。君はどっちで呼ばれたい?」
 「春でいいわよ。私の事を冬子って呼ぶのは私を愛してくれる人だけで充分よ」
 彼は私を追い越してドアを開ける。私は靴を履いてドアを出た。
 彼が慌てて言う。「春ちゃん、絵は持って帰ってくれないの?」
 「ええ、預かっておいて。また私の絵を観に来るから」
 彼は私に手を差し出した。私はその手を握る。彼はとても強い力でその手を握り返してくれた。
 そして私達は一緒に住む事になった。だから私の部屋にはいつも春の風景がある。

 それから四年。彼は恋人を三回取り替えた。その度に彼は、少しづつ大人になりつつある。私はまだ私を冬子と呼ぶ男性に出逢ってはいない。
 彼が酒に酔いグデングデンになって帰った時に「フユコー帰ったゾー」と呼ぶだけだ。
 そんな時私はコップ一杯の水を差し出して言う。「正人君。一人で眠れるわよね」
 そう言うと彼はその水一気に飲み干して自分の部屋に引き上げる。何故かそれは条件反射のようにいつも決まっている。あの時彼は私の中に何を見ているのだろうか?
 一度次の朝彼に尋ねた事がある。しかし二日酔の頭痛を抱えた彼は「何も覚えてないんだ。そう、春ちゃんがお水をくれたんだ。ありがとう。でも僕何か変な事言ったりしたりしなかった?」と言ってとても不安そうな顔をした。
 「大丈夫よ。ただお水を一杯飲んでそのままベッドへ直行よ」
 彼は言う。「もう、あんなに飲むのは止めよう」
 しかし二ヶ月に一度ぐらいの割合で彼は夜中に私を冬子と呼んだ。何故か私はそんな彼にお水を与え続けるのだった。
 四年の間に私の仕事は少しづつ増えていた。頼まれれば何でも書く。そしてその合間に春の歩むはずだった青春の小説を書いていた。彼も結構仕事があるらしく、昼間はアトリエに篭もっていることが多くなっていた。
 彼は週に一度彼女とデートに行き、あと二〜三度は友達と遊び歩く。しかし彼があの時に言ったように、一度も友達や彼女を連れて帰ったことはなかった。そして私も誰も連れては来なかった。
 玄関には「オフィス正人」と「オフィス春」の表札が並んで掛かっている。しかしそれはほとんどが郵便物の為だけにそこにあった。
 極くたまにお互いの仕事の打ち合わせで人が来ることがあったが、その時にはお互いに自分の部屋から出ない様にして気を遣った。
 夜彼が出歩かない時には一緒に食事をした。食事だけは一人でするより二人の方が美味しく食べられるからだ。私が料理を作った時にはそれを一緒に食べ、作るのが面倒な時には彼が奢ってくれた。そしてフィフティーフィフティーは保たれていた。確かに初めに彼が言ったように同居人として二人はとても巧く行っていた。
 私達はたまに二人でお酒を飲んで夜更けまで話した。娘の春の事も二年ほど経った頃、話した。彼はその時は何もそれに対して言わなかった。ただ何日か経ってから娘の父親達についてこう尋ねた。「十九歳の冬子は愛していたのかい?」
 私はそれに答えた。「判らないわ。でも、二人とも好きだったの。十九歳の時にはどちらか一人を選ぶなんて出来なかったわ。だからどちらも選ばすに一人で春を産んだのよ」
 彼は頷いてその後もうそのことについて何も言わなかった。
 彼の恋人については良く聞かされた。あの時の恋人はとても可愛い娘で、その次の彼女はしっかり屋さんだった。次がとても寂しがり屋な彼女になって、最後の彼女はとても気が強くて彼も手を焼いた。そしていつもの口癖のように言う。「春ちゃん。女って、どうして僕を所有したがるんだろう。疲れちゃうんだ」彼がそう言った後、大抵別れが待っていた。私には彼の身勝手としか思えなかったが、彼にとってはとても大切な事らしかった。そして最後の彼女と別れてから彼は、もう半年近く彼女を作っていなかった。
 同居を始めた時に、二人で取り決めをした。お互いに何かを頼む時はお金で済そうと言う取り決めだった。現金が無い時には借用書でも良い。そしてそれはお金で無く、何か違うことで精算する事も出来た。例えば、お風呂掃除を代わって貰ったら三百円。しかしリビングの掃除を一回代ることでそれは帳消しになった。私は大体重い物を動かす時や、何かが壊れた時に彼に頼んだ。その都度先に金額の交渉をする。
 そんな取り決めをした時に彼がこんな事を言った。
 「春ちゃんにセックスを一回お願いしたら幾ら位かかるかな?」
 私は冗談だと思ってそれに答えた。「それは上手だったら安くてもいいし、下手だったらうんと高くもらわなきゃ合わないわね」
 彼は真顔で尋ねる。「でも春ちゃんが僕を買うんだったら、巧い方が高くて下手だったら安いんだよね」
 私もつられて考える。「そうよね。それに巧い下手ってとても曖昧だし、巧くっても良くなかったって言えばいいんですものね。だったらやっぱり定価を決めるべきかしら。外で女性を買ったら幾らぐらい渡すの?」
 「良く判らないけど、二〜三万って言うところじゃないかな?」
 「だったら二万五千円って言うとこでどう?」
 「高くも無く、安くも無言って言うところだね」そう言って二人で笑った。
 「でも、それじゃぁまるで娼婦ね」私が言うと彼は素直に謝った。
 「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ一度ぐらい春ちゃんと寝みたいなって思っただけ」
 「あなた酔ってるのね」私が言う。
 「そうかも知れない」そう言うと彼は自分の部屋へ引き上げた。
 それっきり私は、そんな話をしたことも忘れていた。

 彼が最後の彼女と別れて一ヶ月程したある夜、彼は少し酔った風で私の部屋をノックした。
 私はベッドに寝っころがってテレビを観ながら答えた。「何?」
 彼がドアを開ける。「入ってもいいかな?」
 私はベッドに起き上がって言う。「構わないけど、私が外に出ましょうか?」
 「いや」と彼が言って私の部屋に入り、床に座り込んだ。
 「正人君。酔ってるのね」
 彼が正直に頷く。「少しだけどね」
 私は彼の横を擦り抜けて部屋を出ると、キッチンへ行ってコップに水を注いで自分の部屋に戻る。そして座り込んだ彼にそれを差し出して言う。「正人君。一人で寝られるわよね」
 彼はコップを受け取り、微笑んで言った。「そうか、いつも春ちゃんがそう言ってくれてたんだ。いつも酔っ払った後、何となく懐かしい気持になってたのはそのせいだったのか。でも今日はそんなに酔ってないよ。だから母さんはいらない。出来たらお水じゃなくてもう少しウイスキーが欲しいな」
 私は頷いて彼の手からお水の入ったコップを受け取ると、もう一度キッチンへ行って二つのグラスに氷を入れ、それを持って部屋に戻った。自分の戸棚からウイスキーの瓶を出してグラスに注ぐ。彼はそのグラスを受け取って手の中でぐるぐる回す。氷の音がカラカラと心地良く響いた。彼はそれを一口飲んで床に置き、ジーンズのポケットから四つに折り畳んだお札を引っ張り出す。それを丁寧に延ばして私に差し出すと言った。
 「春ちゃんを買いたいんだ」
 私はそのお札を受け取り、それを見つめながら暫く考えた。それで結局「今日は売りたくないわ」と言って彼にお金を返した。
 彼はグラスを持って立ち上がると「交渉決裂か。仕方ないね」そう言って出て行った。ドアを閉める時に「ウイスキーをありがとう」と言った。
 私は一人でウイスキーを飲む。そしてもう一杯注ぎ、それを一気に煽ってテレビを消してベッドに潜り込んだ。
 目を閉じて思った。彼は私が欲しかったわけじゃない。女を抱きたかっただけなのだ。だったら売ってあげれば良かっただろうか。しかし私は春が出来てから一度も男と寝てはいなかった。ちゃんと出来るかどうかも判らなかったし、彼を満足させられるかどうかも判らなかった。売り物にするにはちょっと気が引けた。あれからもう十二〜三年も男と寝ていない。それは春の為でもなく、春の父親達のせいでもない。ただそんな暇が無かっただけだ。人を愛することをずっと忘れていたせいかも知れない。しかしそれに対して寂しさを感じたり不自由を感じたりしていない自分がそこにいた。
 私はベッドサイドの春の写真と正人の描いた春の絵に「おやすみ」と言って眠った。

 次の朝正人はいつもと変わっていなかった。リビングで一緒に紅茶を飲み、彼が朝の散歩の途中で買ってきたドーナツを食べる。一緒に暮らしているうちに彼も朝だけは紅茶を飲むようになっていた。喉に詰まりかけたドーナツを紅茶で流し込んだ彼が言う。
 「春ちゃん、今日は急ぎの仕事はあるの?」
 「今週中に少女雑誌の為の恋愛物が一つあるだけよ」
 「一日ぐらい休んでも大丈夫?」
 「それは大丈夫だけど。何?」
 彼は残りのドーナツをいっぺんに口の中に押し込み、それを紅茶で流し込んで言う。
 「動物園」
 「動物園?動物園がどうしたの?」
 「動物園へ行ってみたいなって思ったんだ。一緒に行かない?」
 私の頭の中で動物園が回り始める。サル、カバ、キリン、それに象。
 「楽しいかも知れないわね」
 私が言うと彼も頷いて言う。「もう何年も行ってないだろう?」
 私は最後に行った動物園を思い出していた。その時に春と繋いだ手の温もり。私はその掌を広げてみる。そしてその手を握って彼を見た。彼はとても複雑な表情を浮かべて私を見ていた。私は微笑んで見せて言う。
 「象の前で手を繋いでくれるんだったら行ってもいいわ」
 「どうして象の前なの?」彼が尋ねる。
 「どうしてでもいいじゃない」
 「ああ、いいよ。象の前で手を繋げばいいんだろう?」私は頷く。
 そうして二人で、世間のみんなが働いて居る秋の一日に動物園へ行くことになった。

 私はパジャマを脱いでジーンズに足を通しながら思っていた。あの時私は象の檻の前で親子の象を見ていた。なぜあんなに夢中になってしまったんだろう。ゴワゴワした皮膚に針のような毛が生えていた。口は体の灰色に似合わず、驚く程赤い。子象はじっと私の方を見ていた。まるで何かを語り始めそうに長い鼻を少し持ち上げて。母象はその後ろで鼻をブラブラゆすっていた。
 私は何か考え事をしていたのかも知れない。しかし子象が何か語り始めるのを待っていたようでもあった。
 ふっと吾に返ると春が居なかった。彼女は一人でどこかへ行ってしまい、私一人が象の檻の前にたたずんでいた。体中の血が引いていくのが判った。私は春の名を呼びながら動物園中を捜し回った。
 私が春を見つけた時、彼女は夕日を浴びながら猿山の前で泣いていた。私はゴメンゴメンと謝りながら彼女を抱きしめた。春がやっと四歳の誕生日を迎えた頃だった。

 私はセーターを被り、腕を通して、ブルゾンジャンパーを手に持ってリビングに出た。

 地下鉄に乗り動物園へ行く。平日の朝遅い時間帯。電車には数えるほどしか人が乗っていない。私達は並んで座り自分達が写る窓を見ていた。
 私が尋ねる。「どうして動物園なの?何か仕事に必要なの?」
 「いや、違うんだ。今朝散歩してたら、熊みたいに大きな犬を連れて散歩している人を見かけてさ。それで本物の熊を見たくなったんだ」
 「熊みたいな犬?」
 「そう、こんな大きな奴」彼はそう言って大きく手を広げた。
 私は笑って言う。「どうしてそれに私が一緒なの?」
 彼は首を傾げて「どうしてだろうね」と言った。そして私の方を向いて言う。
 「たまには春ちゃんを恋人代わりにしてみようと思ってね」
 私は溜息をついて言う。「早く恋人を見つけた方がいいわね」
 「春ちゃんは迷惑だったかい?」
 「そうじゃないけど。何だかとても不毛だわ」
 彼はまた窓に写った自分達に向かって言う。「不毛か。確かに」
 私も窓に写った彼に向かって頷いてみせた。
 「でも今日の動物園は良かったわ。ちょうど仕事も急ぎのが無かったし、私だったら動物園なんて考えもつかなかったもの。誘ってくれてありがとう」
 彼が窓の中で微笑んだ。

 私達は動物園のある駅で降りて、お弁当を買い、それを持って動物園に入った。
 ゲートを潜ると一番初めに象の檻があった。
 正人は何も言わずにそっと私の手を取った。私は彼の温もりを掌に感じながら象の檻に近付く。しかしそこには大きな象が二頭居ただけで、子象は居なかった。その大きな象も私に何も語ろうとはしなかった。それでも私は象の前にたたずんで、しばらく見ていた。正人は辛抱強く私に付き合ってくれた。
 私は繋いでいた手を離して言う。「もう大丈夫よ。ありがとう」
 彼は少し悲しそうに微笑んでみせた。
 「次は熊を見に行きましょう。クマクマ犬みたいな熊」私は歌いながら歩く。
 彼が少し遅れて付いてくる。私はクルリと振り返って尋ねる。「何色の熊みたいな犬だったの?」
 「白だよ」
 「あら。じゃあこっちじゃないわ。白熊は向こうよ」
 彼が言う。「いいんだよ。まず黒いのを見て、それから白熊を見るんだ」そう言って私の隣に並んだ。
 「ねぇ、私、本当の熊よりあなたが今朝見たって言う、熊みたいな犬の方が興味あるわ」
 「じゃあ春ちゃんも朝散歩するといい。また会えるかも知れない」
 「早起きは苦手なのよ」
 彼はいつも早起きだ。遅く迄飲んだ次の日でもちゃんと八時には起きる。飲まなかった日には七時前に起きて散歩に出かける。
 「そう言えばあなたどうしていつも早起きなの?」私が尋ねた。
 彼が歩きながら答える。「何だか時間がもったいなくてね。朝の光はいろんな物をよりピュアーに見せてくれるんだ。悲しみはうんと悲しく、喜びはうんと嬉しく、そして草や木は一番美しい姿でそこにある
 「フーン。それであなたはそれを絵にするわけね」
 「そうかも知れない」彼は自分に言い聞かせるようにそう言った。
 私の作業は頭の中の作業だ。何かの刺激、大体がそれは気に入った言葉だったりするのだが、それが頭の中で映像に変わる。色んな人が生まれ、そして生き始める。それを私が覗き見して書き記す。その段階まで来ればもう私は何も考えないでただ見たことを書くだけだ。彼は自分の目で見たものを頭で受け止め、手でキャンパスに描く。見たものをそのまま描くのなら彼の絵にはならないだろう。しかし彼の頭が見たものは彼一人のものだ。そこまで思った時に私は独り言を言った。「大変ね」
 彼がそれに答える。「何が?」
 私は慌てて説明をする。「あなたの仕事のことよ」彼がそれに対して曖昧に笑った。
 私達は熊の檻の前に立っていた。
 「何だか眠そうな熊ね」私が言う。
 実際に檻の中の熊は太陽の光を浴びてまどろんでいた。黒いゴワゴワした毛皮に触れるときっと太陽の暖かさを感じるだろう。もしかしたら、鼻を近付けると太陽の匂いだってするかも知れない。
 「気持良さそうだね」彼が言った。私達は二人で並んで熊を見ていた。
 彼がつぶやく。「幸せなんだろうか?」
 私は驚いて彼を見る。彼はじっと檻の中の熊を見ていた。
 「どうして?」私が尋ねる。
 彼は熊から目を離さずに言う。「何だかとても暖かそうだから。でも檻の中にも幸せはあるんだろうかって思ったんだ」
 私も熊を見ながらそれについて考える。そう言われると、お日様を浴びてまどろんでいる熊は、悟りを開いた聖者の様に自分の運命を受け入れ、その中で微かな喜びを大きく感じようとしているようにも見えた。
 「きっと幸せなのよ。だって他の所の事も知らないし、ここで生まれて育った彼は野山を夢に見ることもないんじゃないかしら。自由がどんなものかも知らないだろうし、もし自由になったところでそれを楽しむ術も持っていないのよ。ただ、あるがままを受け入れて生きているの。ほら、まるで悟りを開いた聖者の様な顔をしてるじゃないの」
 彼がそれに対して頷いて見せた。「知らないって言う事は、その世界には存在しないって言う事なんだ。彼にとって自由は絵に描いた餅ですらない。その絵すら見たこともないんだから」
 「あなた、何か有ったの?随分哲学的ね。夕べも酔っ払って変なこと言ってきたし」
 彼は熊を見ながら言った。「何となく寂しいんだ。何が嫌だとか、どうして寂しいのかとかは判らないんだけど、ただ漠然と寂しくてねテンションが落ちてる。今、描きたいものもないし、愛する人も居ない」そこで彼はしばらく言葉を切った。
 私は彼の寂しさについて考えていた。彼がまた話し始める。
 「夕べはごめん。気を悪くしなかったかな?」
 私が答える。「いいえ。大丈夫よ。いつもの交渉事と同じですもの。ただ成立しなかっただけよ。あなたが私の壊れたスタンドを直せなかったのと同じだわ。でも、もう少し自分に自信があったら売ってあげられたかも知れないわね。私、売り物にするだけの自信がなかったのよ」
 彼が私の方を向いて言う。「じゃあ、今度僕を買ってくれないか?僕は自信があるよ。セックスに関してならね」
 「でも恋人と結婚するのには自信が持てないんだ」私が言った。
 彼は素直に頷くと言った。「自分以外を受け入れることがとても難しいんだ。自分自身にさえ手を焼いているのに、他人を受け入れるなんてとても無理だ」
 私はそんな彼の背中をポンッと叩いて言った。「白熊を見に行きましょう」
 彼も熊の檻を離れて歩き始めた。

 途中で、燃え立つような緋色のサルビアが植えられた花壇の前のベンチに座ってお弁当を拡げる。彼は近くの自動販売機でウーロン茶を買ってきて私に一つくれた。私はそれの代金を彼に払い、プルリングを引いた。
 「外でお弁当を食べるなんて久しぶりだ」彼が言った。
 私は頷いて言う。「あなたに彼女が見付からなかったら、今度は私がお弁当を作ってあげるわ。ウインナーはタコがいい?それともカニサン?」
 「両方入って方がいいな。あと卵焼きにコロッケ。そうだ今度は水族館に行こう」
 「あなたって子供っぽいところがあるのね」
 「実を言うとシャケの切り身を見る度に、元の姿が見たいっていつも思ってたんだ」
 彼はお弁当の中のシャケの切り身を箸でつまみ上げてそう言った。私は自分の分のシャケを見ながら言う。「シャケの尾頭付きだと大きなお弁当箱がいりそうね」
 彼は大きく頷いて、そのシャケにかぶりついた。私は水族館にシャケが居るのかどうかを考えていた。
 弁当を食べている私達の前を、先生に引率された幼稚園児達が通る。お揃いの服を着て黄色い帽子を被っている。男の子と女の子が手を繋ぎ、先生の後をついて歩く。みんな肩から水筒を下げ、お弁当が入っているのだろうそれもお揃いのリュックサックを背負っていた。私は一番後ろを歩いてくる女の子が目にとまった。彼女は手をつなぐ相手が居ないのか、一人で黙々と歩いていた。白いズック靴が目にまぶしかった。
 私は食べるのを忘れてつぶやく。「春」
 春に似ていた。茶色い髪を三つ編みにして赤いリボンを結んでいた。
 引率の先生が彼女に声をかける。「ユウちゃん、先生と手をつなぎましょう」ユウちゃんと呼ばれた彼女は目を上げて先生に笑いかける。「先生、私一人でも歩けるわ」
 先生が答える。「ユウちゃんはしっかりしているわね。でも先生が寂しいから手をつないでくれない?」彼女は大きく頷いて先生の差し出した手を取った。そして私の前を通り過ぎた。
 いつの間にか正人が私の手をしっかり握っていた。私はそのことにも気付かないほど春に似た女の子を見つめていたのだ。
 「冬子」正人が私にそう呼び掛けた。私はフッと我に返って不器用に微笑む。そして正人に握られた手を見て言う。「お弁当が食べられないわ」彼が私の手を放す。
 私はまたお弁当箱を持って食べ始めた。正人も何も言わずにお弁当を食べ終える。そして煙草に火を付けてそれを大きく吸い込んだ。彼が吐息と共に煙を吐き出して言う。
 「誘って悪かったかな?」
 私も食べ終えたお弁当箱を片付けながら言う。「気にしないで。私ってたまに自分でも判らないうちに何かに夢中になっちゃうことがあるの。それで前に動物園に来た時、象の檻の前でそうなっちゃって春を迷子にさせちゃったの」
 「それで象の檻の前で手をつないだのか」私は頷いた。
 彼が続ける。「象の何にそんなに夢中になったんだろう?」
 私は首を振って言う。「判らないわ。でも、何か話しかけようとしていたのよ」
 「君が象にかい?」
 「違うわ。象が私によ。親子連れの象がいて、子供の象がこう少しだけ口を開けて何かを言いたそうにしていたの」
 「君はそれが聞きたかったんだ」私は頷いた。
 「聞こえた?」彼が尋ねる。
 私は首を振る。「判らなかったわ」
 彼が頷いた。そして吸い終わった煙草を靴で踏み消してお弁当箱と一緒にまとめた。そして屑篭にそれを入れて言う。「白熊を見に行こうよ」
 私もベンチを立ち上がって空に向かって伸びをした。
 春はもう死んでいない。それに生きていればもっと大きくなっている。そして私は今のような生活はしていない。私はもう春の知っているお母さんではないのだ。
 先に歩いて行く彼に向かって私は呼び掛ける。「正人君。どうしてあなたはさっき私を冬子って呼んだの?」
 彼は振り返って言う。「あの瞬間だけ君を愛したんだよ」
 私は驚いて立ち止まった。彼が悪戯っぽく笑う。「冗談さ。君が春ちゃんを思い出してたから、春ちゃんって呼べなかったんだ」
 私は彼に追い付いて言った。「ありがとう。気を遣わせてごめんなさい」
 「気にすることなんてない。でも、突然何かに夢中になる癖は直した方がいい。今度は君が迷子になっちゃうかもしれないよ」
 「誰とはぐれるの?」
 「君自身とだよ」
 「あなた今日は本当に哲学的ね。自分自身とはぐれたらどうなっちゃうのかしら?」
 「今の僕みたいに急に動物園に来たくなったりするんじゃないかな?」
 「それで哲学的になったりもするのかしら?」
 彼は首を傾げて微笑む。そして少しはにかみながら言った。「春ちゃん。僕と手を繋いでくれないかな?迷子になっちゃいそうなんだ」
 「あなたが?それとも私?
 「どっちもだよ。もしかしたら僕達は二人とももう迷子になっているのかも知れない」私は頷いて彼の手を取った。
 私は、彼の大きな手の中で自分の居場所を探しているようだった。
 私達は手を繋いで白熊を見、キリンを見、そして猿山を見た。その間私は自分の居場所について考えていた。彼の手の中は思ったより居心地が良く、そこで安心してしまいそうな自分を感じていた。しかし、そうする事に対するバツの悪さも感じていた。彼が言ったように、確かに私は自分からはぐれてしまった迷子なのかも知れない。愛される事からも、愛する事からもはぐれてしまっている。しかし私の方が彼よりも重症で、自分が迷子になっている事すら気付いてはいなかった。

 ゆっくりと時間を掛けて園内を巡り、日が少し西に傾いた頃、私達は動物園を後にした。彼は仕事の打ち合わせをすると言って違う線の地下鉄に乗り、私も途中の街までの切符を買った。
 私は百貨店の地下の食料品売り場でドイツ風のソーセージを買い、とても良く育ったキャベツを丸ごと買った。焼きたてのパンの香りに誘われて、大きなバケットも買う。そして直輸入で安くなっていたフランスの赤ワインを二本買って帰った。

 重い荷物を抱えて電車に乗る。まだラッシュには少し早かったので座ることが出来た。膝の上に荷物を乗せ、荷物の重さで赤くなった自分の掌を見る。私はこの手で何をつかもうとしているのだろう?幸せを掴める手なのだろうか?今までこの手は幸せを掴んだことがあったのだろうか?私は手を握りしめた。そして思った。春の手を掴んでいた時、私は確かに幸せだった。彼女を思い出すだけで私は幸せに成れる。それでいいと思った。私の手は正人の手を握るためにあるのではない。春の為の物なんだ。しかし春はもう居ない。彼女はもう行ってしまったのだ。私はこれからこの手で何を掴めばいいのだろう。
 正人と行った動物園は私の中に小さな石を投げ込んだ。この小さな波紋がどこまで大きく成るのだろう。私は心を静めようと思った。春を生んでからずっとそうして生きて来たのだ。何事にも心を動かさず、誰にも頼らず、ただ淡々と生き続ける自分だけが残っていた。どこに向かって歩いているのだろうか?どんな風に歳老いて、どんな風に春の元へ行くのだろう?いくら考えても答えの見付かる問題ではなかった。

 部屋に戻って私は一番初めに掃除をした。正人の仕事場と私の部屋とリビングの全部の窓を開け、運動会の応援に使うポンポンの様なはたきでほこりを払い、掃除機を掛けた。その後バスルームとトイレの掃除を済ませ、料理に取り掛かった。
 大きな鍋に少し大きめに切った半分のキャベツと水と野菜ジュース、それにトマトを丸ごと煮た缶詰を入れる。そこに黒胡椒、タイム、オレガノ、オールスパイス、クローブ、それにたっぷりのパプリカを振り入れる。沸騰したところでコンソメブロックを加え、灰汁を取りながらさらに煮込む。二本買ったワインの一本を開け、まずグラスに注いで一杯は口の中に、もう一杯を鍋の中に入れる。鍋の火を小さくしてもう一杯グラスに注ぎ、冷蔵庫の中のチーズを齧りながらゆっくりとそれを飲んだ。キャベツの芯まで柔らかくなった頃を見計らって軽く切り目を入れたソーセージを入れる。そしてバケットを自分の食べる分だけ、2センチぐらいの厚さに切り分けてお皿に盛った。ソーセージが暖まったら、ソースと醤油で味を整え、深皿に盛り、パセリを散らした。それとパンと残りのワインをリビングに運び、食べる。少し食べたところで正人が帰って来た。
 「春ちゃん、おいしそうだね」
 「食べる?」
 「ああ。何も食べて来なかったんだ。僕の分もある?」
 「あるわよ。ついで来ましょうか?」
 「僕がするよ」
 彼はそう言って自分の分をついで持ってきた。私は彼の分のグラスを用意し、もう一本のワインを開けてそれに注ぐ。
 彼はそのワインを灯に透かして見ながら言う。「きれいな色だ」
 「フランスのワインよ。直輸入でとても安かったの。でもその割には結構おいしいのよ」
 彼はそれを一口飲んでみて言う。「本当だ。それにこの料理にもピッタリだ」
 私は頷いてみせた。「創作料理よ。ちょっとドイツ風でしょう?」
 「なかなかいけるよ」
 「あなたも食べるんだったら、サラダも作れば良かったわね」
 「構わないさ。キャベツがこんなに沢山入ってるんだから。それに、おいしいワインもある」そう言って彼はパンを皿に残ったスープに付けて頬張った。そしてキッチンへお変わりを注ぎに行く。
 「全部食べちゃっていい?」
 「構わないわよ」私が答える。
 私はワインの心地好い酔いが回ってとても気持ちが楽になっていた。ワインと料理でおなかも一杯になっていた。
 「ねぇ。描きたいものは見付かりそう?」私が尋ねる。
 彼はワインのグラスを持って首を振る。「だめだね」
 「動物園では何も収穫はなかったの?」
 「そうだね。でも、少し気持ちが楽になったよ。付き合ってくれて、ありがとう」
 「どういたしまして。私も久しぶりにいろんなことを考えた。それでお礼に、あなたのアトリエとバスルームのお掃除をしておいたわ。バスルームの掃除って今日はあなたの番だったでしょう?」
 「ありがとう。助かったよ。さっき思ってたんだ。ワインを飲む前に掃除をしちゃえば良かったって。だって酔っちゃうと面倒だからね」
 「私もそう思って先に済ましちゃったのよ」
 彼がお皿の料理を全部食べ終えたのを見計らって、私は食器を片付ける。テーブルの上には空になったワインの瓶が二本残った。彼がそれを片付けて、ブランデーを自分の部屋から持って来る。リビングのソファーの前にそれを置き、タンブラーグラスに氷を入れて注いでくれた。
 「お礼に一番いいのを持ってきたよ」
 私はソファーに腰掛け、そのタンブラーを持って言う。「どうもありがとう。お礼のお礼ね。なんだかややこしいわね」
 彼は笑ってブランデーを口に運んだ。私もそれを口に含む。確かにそれは上等なブランデーで、口の中に品のいい甘さが拡がった。
 彼が手の中でタンブラーを玩びながら言う。「春ちゃんは僕がどんな絵を描けばいいって思う?春ちゃんの個人的な意見でいいんだ」
 私はブランデーを一口飲んで考える。そして少しだけ思い切って言ってみた。
 「あなたが何を描けばいいのかは判らないけど、私が欲しい絵なら一つあるわ」
 「どんな絵だい?」
 私は立ち上がり、部屋の灯を少し暗くして、彼の顔を正面から見ないように彼の隣に座った。そしてもう一口ブランデーを飲んで言う。
 「目の前に線路が乗っている土手があるの。そこには真っ黄色の菜の花が満開に咲いていて黄色い壁みたいに見える。でもそれは紛れもなく線路なのよ。そして深い深い紺色の空に、とても大きな白い満月があるの。でもその月に照らされて菜の花が黄色いんじゃなくて、菜の花自身の力で黄色いの。そんな絵よ」
 「君はどこに居るんだい?」
 「私が見ているの、だから画面の中には居ないわ。でも、そう。遠くで汽笛が聞こえるといいわね。ずっと遠くの方でね」
 「月は登ろうとしているのかい?それとも沈もうとしているの?」
 「どっちでもないわ。ただそこに在るの。誰かが紺色の画用紙に穴を明けたみたいに、月が惣然とそこにあるのよ」
 彼はしばらく目を閉じて黙っていた。私には彼が眠ってしまったように見えた。私は何も言わずにブランデーを飲んだ。
 私の今言った風景はずっと昔から私の中にあるものだ。それが何を意味するのかも判らない。ただずっと私の頭の中にそれはある。それは思い出でも感傷でもない。ただいつもふっと私の頭の中のスクリーンに浮かぶ。そして何も語らずにそこにある。しかしその風景を見る時、私の手はいつも誰かと繋がっている。もしかしたら幼い頃の私自身の記憶なのかも知れない。ならば私の手を取っているのは母なのだろう。しかし絵の中には誰も居ない。ただ菜の花と月だけがそこにある。それだけのものなのだ。
 彼がそっとグラスを取り上げてブランデーを口に含む。そして大きく咽を動かしてそれを飲み込んだ。その後そっと目をあけて私を見て言う。
 「春ちゃん、きっと何時か描いてあげるよ。僕にも見えそうな気がするんだ。それが君と同じものかどうかは判らないけど。空は、空はあくまでも紺色なんだね」
 「ええ、黒じゃないの。とても深い紺なのよ」
 彼が頷く。「判った」そう言って彼は自分と私の空になったタンブラーにブランデーを注ぎ足した。私はそれを持ってソファーにもたれかかる。私にしてはちょっと飲み過ぎかも知れない。
 窓ガラスに映った自分の顔がぼやけて見えた。
 私は自分の部屋に戻ってゆったりとした部屋着に着替える。ジーンズで締め付けているのが少し苦痛になったからだ。そしてまとめてあった髪を下ろす。そしてまたリビングのソファーにあぐらをかいて、残りのブランデーを飲んだ。
 彼が言う。「まるで夫婦みたいだね」
 私は首を振る。「違うわ。あかの他人よ」
 「春ちゃんは厳しいね」
 「あら?女性に厳しいのはあなたの方よ。あなたの今までの彼女って、どの人もいい子だったんでしょう。なのにあなたは誰とも責任を取らなかった。彼女達はそれを望んでいたにも係わらずね」
 「そうかも知れない。それで罰が当たって何も描けなくなったんだ」
 「今日は随分素直に認めたわね。どこか調子が悪いの?」
 「そうだよ。迷子になってるからね」
 「なるほど。でも私には私のことだけで精一杯よ。あなたを助ける余裕なんてないわ。せいぜいお掃除を変わってあげたり、料理をしてあげるぐらいしかないわ」
 「いいんだよ。ありがとう。ただ、少しの間だけ夢を見たかっただけなんだ。自分だって誰かを幸せに出来るんじゃないかってね」
 「私を幸せにしてくれるの?」
 「無理だって言う事がよく判ったよ」
 「どうして?」
 「だって君は誰にも心を開かない。君は君の中で完結しようとしているんだ。僕の入り込む隙間なんてないんだよ。それがとても良く判った」
 「何だかそう言われると、私ってとても不幸な人生を歩いているみたいね」
 「じゃあ君は幸せになりたいって思ってるかい?」
 私はそう言われて答えに詰まった。そしてグラスの底に残ったブランデーを、飲み干した。彼がそれに注ぎ足そうとするのを手で止める。
 「もういいわ。ちょっと飲み過ぎよ」
 彼はその手を払いのけて言う。「もう少し飲んでくれ。一度君の酔っぱらったところが見たいんだ。酔わせて襲ったりしないから。ただ僕がお水をグラスに一杯君に差し出すんだ。そしてこう言う。『冬子、一人で寝られるね』ってね」
 「私はあなたみたいに聞き分け良くそれを飲んですぐに眠ったりしないわ。私の奥の方からあなたの知らない私が出て来るのよ。あなたにその私は受け入れられないわ。誰も冬子を愛したりできないのよ」
 「それは冬子が君の心の奥底に縛り付けられているからなんじゃないかな。誰にも見えない女を愛する者なんていないよ。僕は冬子を見てみたいんだ」
 「あなた、酔ってるのね」
 彼はとても優しく笑った。その笑顔が酔っ払ってなんていないのは良く判っていた。酔っているのは私の方だ。私は春でなく冬子として話し初めていた。しかし春である私がそれを押しとどめようとしていた。そして言った。
 「私、先にお風呂使っていいかしら?」
 「構わないけど、逃げるのかい?」彼が言った。
 「そうよ。迷子の正人君は苦手なの」そう言ってバスルームへ向かった。

 シャワーを終えてリビングに戻ると彼はまだブランデーを飲みながらスタンドの明かりで雑誌を読んでいた。
 「お風呂、空いたわよ」
 彼が顔を上げて私を見る。私には気のせいか、スタンドの光のせいか、彼が泣いていたように見えた。私は何故か見てはいけないものを見たような気がして、バスタオルで乱暴に髪を拭う。
 彼が雑誌を閉じて立ち上がる。そして言った。「僕もシャワーを浴びるよ。悪いけどもうグラス片付けてくれるかな?」
 彼は泣いてはいなかった。私の気のせいだったのだ。「いいわよ」私はそう言ってグラスを片付ける。
 彼は自分の部屋に戻ってパジャマに着替えてからバスルームへ行った。私はリビングの灯をいつものように明るくしてから自分の部屋に引き上げた。髪をよく乾かしてベッドに入る。
 そして春の絵と写真におやすみを言って目を閉じた。

 それは私の生まれた季節、秋の終わり、冬の始まりの頃の出来事だった。



 あれから本当の冬が来て、私はこの部屋で四回目の冬を過ごしたことになる。そして四回目にしてやっと正人が初めての時にこの部屋で見せてくれた、真白な雪景色を見ることが出来た。

 もうすぐそこまで春が来ていると言うのにその朝はやたらに寒くて、私はヒーターを点け、大きなカーディガンを被ってカーテンを開けた。そこには全く信じられない程真白の木々が立ち並び、周りの家の屋根にもメレンゲクッキーのような雪が乗っていた。
 私はリビングに出てそこのヒーターも点け、キッチンへ行ってお湯を沸かす。その間に顔を洗って服を着替える。部屋が暖かくなったころにカーテンを全部開けて窓一面の雪景色を楽しんだ。そしてトーストを焼いて紅茶を入れた。そのどちらもが丁度出来上がったのを見計らったように正人が散歩から帰って来た。
 「春ちゃん、僕の分もある?」
 「あるわよ。トーストはどうする?食べる?」
 「ああ」
 私は彼の分の食パンを二枚トースターに入れる。そして彼のカップに紅茶を注ぎ、あたためたミルクをたっぷり入れて彼に渡す。
 「寒かった。でもすごく気持ちのいい朝だよ」そう言って彼はカップを受け取った。
 私は自分のトーストにマーガリンを塗りながら言う。「滑ってこけなかった?」
 「大丈夫。人の歩く所はもう溶けてるから」
 私は窓から見える雪景色を見ながらトーストを食べる。彼も焼けたばかりのトーストをキッチンから持ってきてジャムを塗って食べる。
 「あなたの描いた冬の絵みたいね」
 「そう、君が一番気に入った絵だよ」
 「でも、あなたはくれなかったわ」
 「そう、春ちゃんだもの」
 私は頷いて紅茶を飲み干した。そしてもう一杯紅茶を飲む。
 「私達って本当に巧くやってるわね」
 「そうだね。僕の思ったとおりだったよ。君は僕の中に決して入り込んでこない。とてもいい距離を保ったまま、もう五年近く過ぎようとしている。いつまでこんな関係をたもてるんだろう」
 「あなたがいい恋人を見つけるまでよ。そんな先の事じゃないわ」
 「だといいんだけど。僕はもう半年以上も恋をしていない。こんなの本当に初めてだ」
 「どうしてなのかしら?」
 彼が首を傾げて言う。「さあ。僕にも良く判らないよ。君が居てくれるからかな?」
 「まさか?もう五年近くもここにいるのよ。でもあなたが恋をしていないのは半年だけ」
 「それもそうだね。きっと歳のせいだよ。前みたいにすぐに人を好きになったりしなくなって来たんだ。随分勉強もしたからね」
 「たった半年で良く言うわね。でも、今度好きに成る人は本物かも知れないわよ」
 「自分では判らないよ。ところで春ちゃん、暖かくなったら水族館へ行こうね」
 「お弁当を持ってシャケの全部を見に行くんだったっけ?」
 「そうそう。良く覚えててくれたね」
 「でも、私思うんだけど、水族館にシャケは居ないと思うの。シャケの全身をみたかったら魚屋さんへ行くべきだわ」
 「でも魚屋さんではシャケは泳いでいないだろう?」
 「じゃあ、北海道へ見にいけば?」
 「君も付き合ってくれるかい?」
 「どうしてよ」
 「だって、お弁当を作ってもらわなきゃいけないんだよ」
 「どうして私がそこまでしなくちゃいけないのよ。お弁当ぐらい向こうで買えば?」
 「タコやカニサンのウインナーが入ってるって思うかい?」
 「思わないわ。でも本物のカニなら入ってるかも知れないわよ。きっとその方がずっと美味しいもの」
 「でもウインナーじゃない」
 「芸術家って変なところにこだわるのね」
 「芸術家がこだわるんじゃない。僕がこだわってるだけだよ」
 私はムッとして言う。「あなたのこだわりの為に私は居るんじゃないのよ。ただの同居人なの。忘れないで」
 「覚えてるよ。でも君がお弁当を作ってくれるって言ったんだよ」
 「ええ、言ったわ。水族館ぐらいならね」
 「だから水族館へ行こうねって言ってるんだ。僕は北海道へなんて行きたくない」
 「もう、あなたって言う人は・・・」
 彼は知らん顔で最後のトーストを頬張った。そしてそれを紅茶で飲み下して言う。
 「春ちゃん、今日の仕事は急ぎのものかい?」
 「ええ、でももう出来上がってるから後は届けるだけよ」
 「じゃあ、これから出かけるのかい?」
 「ええ、そのつもりよ」
 「だったら帰って来てからでいいから、ちょっと時間を貰えないかな?」
 「まさか。今日水族館へ行くんじゃないでしょうね」
 「まさか。水族館は暖かくなってからだよ。ちょっと見てもらいたいものがあるんだ」
 「判ったわ。お昼までには戻ってくると思う。そう、お昼に食べるものを何か買ってきましょうか?」
 「そうだね。巻き寿司でも買ってきてくれるかな?今年は節分に食べそこなっちゃったからね」
 「判ったわ。買ってくる」

 私はそれから雪の残った道を歩いて出来上がった原稿を届けに行った。帰りに銀行口座に振り込まれていた前の分の原稿料を引き出して、少しだけ上等なお寿司屋さんで巻き寿司と折り詰めのにぎり寿司を買って部屋に戻った。

 「ただいま。お寿司買ってきたわよ」彼のアトリエのドアをノックして言った。
 彼が内側からドアを大きく開ける。そのドアの奥に一枚の絵が立て掛けてあった。私の目はその一枚の絵に釘付けになった。
 それは何時か私の言ってた菜の花とお月様の絵だった。
 私は恐る恐るその絵に近づいて見る。それはまるで私の頭の中に行ってスケッチしてきたように、私の中の絵その物だった。絵の前に座り込んでそっと触れてみる。それはキャンパスにではなく、ガラスの様なものに描かれていた。正人がそれを持ち上げて窓の枠に乗せる。すると白い月がもっと白く、黄色い菜の花が自らの力で黄色く輝いた。私は座り込んだままそれを見上げていた。
 正人が言う。「冬子の見たかったのはこんな風景なんだろう?」
 驚きで口の聞けない私は頷くのが精一杯だった。そしてその瞬間にその絵の足元に二つの影が描かれているのを見つけた。それを指差して正人に聞く。「この、この影は誰のものなの?」
 「一つは冬子だよ」
 「もう一つは?」
 「春ちゃんかも知れないし、君のお母さんかも知れない。でも僕だったら、僕だったらいいって思ってるよ」
 私は涙が溢れるのをこらえ切れなかった。次から次へと涙が溢れる。初めて人前で涙を流した。春が死んだ時も私は人前で泣かなかった。一人になって朝から晩まで泣いて過ごした。でも、誰にも涙は見せなかった。なのに私は正人の前で押さえ切れずに泣いていた。誰の為にでもなく、自分自身の為の涙だった。夕日の中で泣いていた娘の春のように泣きじゃくっていた。私は誰かを求めていた。正人が絵を元の位置に下ろすと抱きしめてくれた。私は初めて人の胸で泣いた。心が痛かった。痛くて痛くて堪らなかった。自分の胸をかきむしるようにして泣いた。正人はとても辛抱強く私の背中や頭を撫で続けてくれた。そしてやっと涙が止まった頃に言った。「ほら、顔を洗っておいでよ。すごい顔になってるよ」
 私は頷いてバスルームへ行く。そして冷たい水で顔を洗った。それでも私はまだ放心状態だった。そのまま自分の部屋に戻ベッドに身を投げた。
 しばらくして正人が部屋に入ってきた。そして私のベッドに腰を下ろして、うつ伏せになった私の髪を撫でながら言う。
 「君は冬子なんだよ。冬子のままで愛されるべきなんだ。確かに冬子は愛されていた。春ちゃんのお父さん達にね。だから今僕が冬子を愛していたって悪くなんてないだろう?」
 私はうつ伏せのまま言う。「なぜ、なぜそんな事が判るの?」
 「トオルとアキラって言うんだろう?春ちゃんの父親達って」
 私は驚いて振り向き彼を見る。彼は複雑な表情で私を見ていた。私には訳が判らなかった。自分自身ですら思い出しもしなかった男達の名を、なぜ正人が知っているのだ。彼は少し目を閉じて首を振り、立ち上がって部屋を出て言った。私はその後ろ姿を呆然と見つめていた。すぐに彼は戻ってきた。彼の手には古ぼけた同人誌が握られていた。それを差し出し私が受け取ると、彼は何も言わずに出て行った。
 彼に手渡された雑誌を私は見た。何時か行った動物園の入園券がしおりのように挟まれていた。そのページを私は恐る恐る開く。
 「冬子」と題された文章がそこにあった。そしてそれを書いたのは字こそ違うが、紛れもなく春の父親の一人だった。彼の本当の名前は長谷川徹。そしてもう一人は渡辺彰だ。
 私は涙で霞む目をティッシュペーパーで拭いながらそれを読んだ。途中で何度もやめようと思った。しかし私は読み続けた。何かが私の中で変わろうとしていたのだ。違う、押さえ付けていたものが出て来たがって居たのだ。
 それはあきれるほどの涙を伴っていた。