春  「冬子」  U
 俺達が一般的に青春と呼ばれた年頃のことだった。
 あの頃世間は無気力で、若者達は退廃的に道に座り込み虚ろな目で道行く人を眺めていた。他人と巧くやろうと思うことも無く、かと言って一人で居ることも出来ない。結局、中途半端にしか生きることが出来なかった世代。そして冬子も例外でなくそんな青春の中に居た。

 秋の終り。俺が渡辺のアパートへ遊びに行こうと思い、ジャンパーのポケットに手を突っ込んで歩いていた時の事だ。
 学生下宿の沢山ある小さな町の暗い道の角に、あいつが居た。真黒で癖の無い長い髪を背中に垂らし、破れたジーンズにインドの民族衣装のようなシャツを着て、大きな毛布のようなストールを被っていた。道の端に座り込んで煙草を吸う火が、季節はずれの蛍のように揺れていた。捨て猫のような風情で。多分体を売って遊ぶ金を貰っていたのだろう。

 「そんな所で何してるの?」俺はそんなあいつに何か引かれるものを感じて、声を掛けてみた。
 あいつはもの憂気に目を上げると言った。「私を買ってよ」
 「俺、学生だぜ。金なんて無いよ」
 「ふーん」あいつはそう言って煙草をふかした。
 俺は立ち去りがたい思いで、あいつが煙草を吸うのを見ていた。そして言ってみた。
 「寒いだろう。俺の友達がこの近くに住んでるんだ。今から遊びに行くところなんだけど一緒に行かないか?こんなところじゃお客は拾えないよ」
 あいつは少しの間黙っていた。そして吸っていた煙草を道の反対側に放り投げる。蛍が鮮やかな弧を描いて飛び立った。そして立ち上がるとストールを巻き直して言う。
 「私おなかがすいてるの。何か食べさせてくれない?」
 「ああ。いいけど。俺そんなに金持ってないよ」
 あいつは俺の顔を見上げるようにして言う。「そうらしいわね。私のお客には無理みたい。でもラーメン食べさせてくれるんだったらついてってもいいわ」
 俺は側にあったラーメンの自動販売機を指さして尋ねる。「これでいいか?」
 あいつは黙って頷いた。そして俺の買ったカップラーメンを大事そうに抱えた。自動販売機の明かりで見たあいつの顔は、化粧っけがなく、黒目がちな大きな目が印象的で、エキゾチックな顔だちをしていた。それは捨てられたシャム猫のような印象だった。そしてそれまで付き合った女の子の誰にも似てはいなかった。
 「名前は?」俺が尋ねた。
 「冬子。ちょうど今頃の季節、冬の始まりの日に生まれたんですって。私はよく覚えてないけど。昔パパが言ってた」そう言って、はにかむように笑った。

 「渡辺。居るか?」そう言って俺は友達の部屋の扉を開ける。やつは炬燵でねっころがって本を読んでいた。
 「おお。亨か。入れよ。退屈してたとこだ」そう言うと渡辺は起き上がり、俺の後ろの冬子を見つけた。
 「渡辺、実はそこの角で女の子一人拾って来たんだが、いいか?」俺が尋ねると奴は「大歓迎だ。俺の分は落ちてなかったのか?」と言って笑った。
 「冬子って言うんだ。こいつは渡辺晃」
 冬子は「よろしく」と言って笑った。
 俺と冬子は部屋に入り炬燵に座った。
 「渡辺。ラーメン買って来たんだ。お前も食うか?」
 「ありがたい」そう言うと渡辺はガスコンロにマッチで火を付けると、たった一つしかない鍋にいっぱいのお湯を沸かした。俺は玄関に脱ぎ捨てられた冬子のサンダルを見つめながら湯の沸くのを待った。
 渡辺が俺に言う。「亨。実は俺、先週からバイト始めたんだ。それで十時にここを出るけどお前たちゆっくりして行けよ」
 「いいのか?でも俺、やっぱり帰るよ」
 「いいじゃないか。朝の五時には戻ってくるから。勝手にやっててくれ」そう言うとカップラーメンに湯を注ぎながら俺に向かって片目をつぶってみせた。
 「そうか?悪いな。」俺が言う。
 冬子はお湯の入ったカップラーメンを両手で挟み手を暖めながらそれを見つめて言う。
 「渡辺君。バイト休んじゃえば?」
 渡辺が驚いて俺を見る。俺はどうすべきなのか迷っていた。
 冬子が乾いた声で続ける。「私、二人一緒でも平気よ」そう言って目を上げると、二人の顔を交互に見た。渡辺はバイト先に電話して来ると言って部屋を出た。
 渡辺が半分入ったウイスキーの瓶を持って帰ってきたのは、俺と冬子がラーメンを半分食べた頃だった。
 「先輩に貰ってきた」そう言ってそのウイスキーを炬燵に置くと、伸びかけたラーメンをすする。
 「バイトは大丈夫なのか?」俺が聞く。
 「大丈夫だ。代わりの奴を頼んだから」
 「そうか。悪かったな」
 「何言ってんだ」そう言って炬燵の中で俺の足を蹴飛ばした。
 ラーメンを食べ終わって奴は三矢サイダーと印刷されたコップにウイスキーを注ぐ。コップは二つしか無かったので自分の分はコーヒーカップに注いだ。そしてそれでカンパイをしてストレートで飲んだ。
 部屋の隅に立て掛けてあったギターを冬子が取って弾く。簡単にチューニングし、歌い始めた。
 「おいらを風来坊にした、いかしたあの娘・・」少しかすれてザラッとした手触りの声。突き放すような歌い方。心に傷を付けながら歌っているように聞こえた。俺と渡辺も一緒に歌う。「俺のあんこは煙草が好きでいつもプカプカプカ・・・」
 何曲か歌ったところで時計の針が十時をさした。
 渡辺がすまなそうに言う。「十時過ぎると大きな音を出せないんだ。隣がうるさくってね」
 冬子はいとおしそうにギターをボロンと鳴らすと元の場所に戻した。
 「なあ、みんなで風呂に行こうか。神田川みたいに外で待ち合わせして」渡辺が言った。そして洗面器とタオルを冬子に渡し「俺達は向こうのを使うから」と言って立った。俺は小銭を冬子に渡す。そして三人で部屋を出て、銭湯に行った。
 神田川の様には行かず、外で待ったのは俺達の方だった。俺達が二本づつ煙草を吸い終わったときに冬子が出てきた。
 「髪がなかなか乾かなくって」
 風呂上がりの冬子は初めに見た時より幼い感じがした。
 俺達は冬子を真ん中にして並んで歩いた。冬子の髪から石鹸の香りがした。
 俺達は部屋に戻った。冬子は洗った下着を窓辺につるす。そして渡辺の箪笥の中からなるべく丈の長いシャツを選んで俺達に後ろを向くように言った。言われたように後ろを向いた俺達は小声で話す。
 「なあ、あそこにパンツが干して有るって言う事は?」
 「そうだよな。俺も気になってたんだ」
 「いいのかな?」
 「お前が拾ってきたんだろう?俺は知らないぜ」
 「何ゴソゴソ言ってんのよ」冬子の声で振り向くと渡辺のシャツをパジャマのように着た冬子が腕組みをして立っていた。
 小さな冬子が大きな渡辺のシャツを着たので、まるでワンピースのようになって、期待した程の事はなかった。しかしやはり何となく目のやり場には困ってしまった。冬子はそんなことなど気にせず、簡単に炬燵の上を片付けるとスタンドの明かりだけにしてウイスキーを注いだ。
 三人は小さな声で話した。映画のこと、歌のこと、そして人の優しさについて話した。大方において俺と渡辺は同じ道筋で考えていた。しかし冬子はいつも違っていた。俺達は与え守ることが優しさだと言った。冬子は違うと言う。与えられた優しさなんてまっぴらだと、自分以外に自分に優しく出来るはずがないとも。人は奪い、壊すために生きているんだ。そして、あなた達は何も判っちゃいない。そう言って最後には眠るように目を閉じて声を立てずに泣いた。俺も渡辺も冬子がとてもいとおしくなっていた。渡辺も何も言わずに自分の内側に向かって旅をしているようだった。俺はこのいとおしくも不思議な冬子という動物を眺めていた。そして泣いている冬子を抱え、渡辺のベッドに寝かせ、俺は炬燵でウイスキーをのんだ。
 渡辺が自分の内側の旅から戻って言う。「なぁ、亨。やっぱ冬子の言うように俺達は甘いのかも知れないな。でもな亨、俺は俺の思うようにしか生きられないと思うんだ。与えたり守ったりして、与えきれなくなったり、守りきれなくなったりした時に、俺がどう成るかが判らない。俺が思っているより弱いかも知れないし、もしかしたら強いかも知れない。そう言う事って今の俺にはいくら考えても判らないような気がする。きっとまだそんなに生きていないからだろう。冬子は弱い男ばかり見てきたのかも知れないし、もしかしたら強い男なんて居ないのかも知れない。何も判らない。でも今俺が言える事は、俺には奪おうと思って奪うことも、壊そうと思って壊すことも出来ないって言う事なんだ。与えよう、守ろうと思っていたのにも関わらず、奪ったり壊したりしてしまうことはあるかも知れないけど。どうだろう?」
 俺がそれに答えた。「渡辺。お前いい奴なのかも知れないな。でも俺はちょっと違うよな気がする。俺がもし女だったら、冬子の考え方を否定できないような気がするんだ。だからやっぱり男は女から奪ったり、傷つけたりするためにいるのかも知れない。与えようとして奪ってしまうより、奪おうとして奪ったほうがフェアーな様な気もする。人生においてフェアーがどれだけの価値があるかどうかなんて判らないけどな。だけど大前提として男は奪い壊す本能を持っていると言う事を覚えておかないと、ある種の女にとっては、ただの偽善者でしかないのかも知れない。俺にも今はよく判らない。ゆっくり考えてみるよ」
 二人はウイスキーを口に運びながらしばらく黙っていた。
 冬子が俺達を呼ぶ。「渡辺君、亨君」
 俺達が振り向くと、毛布から目だけ出して「一緒に寝ようよ」と言った。
 俺と渡辺は顔を見合わせ炬燵の上を簡単に片付け、渡辺の先輩のお下がりのセミダブルのベッドに冬子を挟むように入った。
 冬子は渡辺の方を向き、渡辺の手を自分の腰に導く。そして後ろの俺の手を取って自分の胸に導いた。そして冬子は俺に背中を預けながら渡辺と口付けをする。その間俺は冬子の体を掌で感じていた。そして渡辺が冬子の胸に口付けを移した時、俺が冬子の唇に口付けする。そして下着を付けていない下半身にも触れた。何度か俺と渡辺の手がぶつかりながらも何となく巧く冬子を抱けそうな気がしていた。渡辺と冬子が交わっている間、俺は冬子に口付けしたり胸に触れたりしていた。俺と冬子が交わっている間も渡辺はしたいようにしていた。冬子は声を上げることもなく、静かに二人の間に横たわり、二人に抱かれた。俺達もお互いに遠慮があったのか優しく静かな交だった。

 二人がまだ寝ている間に冬子は起きだし、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを作ると二人に交互に口付けして起こした。暖かい日差しが窓から差し込み、窓の外では冬子の下着が風に煽られて揺れていた。
 俺と渡辺は冬子を残して大学の授業に出た。午後も俺は授業があったので午前中で授業を終えた渡辺は先に帰った。
 授業を終えた俺は自分の下宿に戻って着替え、六時ごろに食料を買い込んで渡辺の部屋へ行った。外から渡辺の部屋を見上げたが、もう窓の外の冬子のショーツはなかった。代わりに夕べ冬子の着た渡辺のシャツと渡辺の洗濯物がぶら下がっていた。
 「渡辺、居るか?」俺は声を掛て部屋に入る。そこにはもう冬子はいなかった。渡辺が黙ってブックカバーに書かれた冬子の置き手紙を差し出した。
 「また来ます。とても楽しかった。箪笥の上にあったビンの中から五百円借りました。冬子」それには、そう書かれていた。「渡辺、悪かったな。五百円は俺が返すよ」
 渡辺は「いや、いいんだ。いい子だったよな。本当にまた来るかな?」と俺に問いかけた。
 「さあ、判らないよ。あいつ一文なしだったし、寝るところがない時にはまた来るんじゃないか?」俺はなるべくそっけなく答えた。

 俺と渡辺は大学に入って知り合った。何となく気が合い、その上お互いを干渉することもなくお互いのペースを尊重し合える友人だった。二人とも同世代の男にしては珍しくきれい好きで、いつも部屋は片付いていた。天気の良い日には布団も乾したし、シーツだって三日に一度ぐらいは洗濯した。近いうちに二人で少し広いアパートで一緒に住もうとよく言っていた。そして実際あのことがあって二ヶ月後にそれは実現した。だから大学時代の残りの三年間は、渡辺と2DKのアパートで共同生活をした。

 引越をする一週間前に冬子はフラッとやって来た。
 俺と渡辺はギターを弾いて歌っていた。渡辺は新しいフレーズを覚えたのが嬉しくて、何度も同じ曲を弾いていた。
 コツコツとドアをノックする音が聞こえ、俺がドアを開ける。そこには毛皮のコートに身を包み、見違えるほど着飾った冬子がいた。
 「冬子。どうしたの?」そう言うと同時に冬子はドアを擦り抜けるようにして部屋に入って来た。渡辺もギターを弾く手を止めて冬子に見入っていた。
 冬子ははにかんでみせると言った。「新しいパパに買ってもらったの」そう言ってコートを脱ぎ、炬燵に入った。
 何かキラキラ光るものが沢山付いた服を着て、濃い化粧をしている。高価そうなハンドバックの止め金を、真っ赤に塗られた指先で外し、ワニ革で出来たサイフから千円札を出し「これ、ありがとう」と言って炬燵の上に置いた。そして銀色のシガレットケースから細くて長い煙草をつまみ出し、それにやはり細長いきれいなライターで火を付けた。
 俺には何か冬子が少し年を取ったように感じられた。しかし冬子は確かに美しかった。世の中にそんな金の使い方があることをその時俺は初めて知った。
 冬子が言うには、あの後すぐにバーに勤め、そこに来ていたお客に囲われて居ると言う事だった。渡辺はその男を愛しているのかと尋ねた。冬子は笑って答える。「まさか。お仕事よ。結構辛いものもあるのよ。だってスケベな爺さんで、その上頭だってハゲてるのよ。でも何やったって嫌なことはあるし、取敢ずパパの言うようにこんな格好してるだけなの。でも私は何も変わらないわ。どうしても嫌になったら逃げ出しちゃうし。元々ヒッピーみたいなもんだから。道に落ちてたら亨君みたいに拾ってくれる人だっているもの」そう言って笑った。そして続ける。「それにもう、いい加減嫌に成っちゃったしそろそろ逃げ出そうかなって思ってるの」
 なるほどと俺は思った。冬子はそうして自分を傷つけながら生きているのだ。そう思ったらあの時のいとおしさが胸に込み上げてきた。渡辺は冬子に引越の話をする。それを聞いて冬子は「後一週間遅かったらあえなかったのね。良かった」と言って喜んだ。そして言う。「私、亨君も渡辺君も大好きよ。なんかあの時初めて会ったのに、ずっと前から知ってたみたいで、あんなにリラックスしたのって初めてだったわ。それで元気が出ちゃって次の日に働き始めたのよ。でも私全然お金持ってなかったし、日給で貰えて住むところもって言ったらバー位しかなかったのよ。だけど一度体売っちゃったらもうだめね。男に買われて、それでまた逃げ出さなきゃいけないの。今度はちゃんと働いて、自分の力でアパートを借りるわ」そう言って笑った。
 そしてまた毛皮のコートに身を包んで帰って行った。渡辺は急いで引越先の住所を書いて彼女に渡した。

 次ぎの年の冬に彼女はとても痩せ、青白い顔をして俺達のアパートへやって来た。
 「こんにちわ。居る?」そう言ってドアから顔を出した彼女は、病人のようだった。ヤクザに惚れられて、覚醒剤を打たれ、警察に飛び込んで助けてもらったとの事だった。そして警察病院に入院し、やっと退院できたと言っていた。
 それから三人で暮らした。俺と渡辺は学校とバイトに明け暮れてはいたが、部屋に帰ると掃除と洗濯をして彼女が待っていてくれた。そして簡単なものだったが食事の用意もしてくれた。そして三人で一緒に冬子の作ったものを食べ、一番初めのように三人で一緒に寝た。
 片方がバイトで居ない時は二人で寝ることもあったが、そんな時冬子は必ずバイトから帰って来るのを待ってまた寝た。そしていつも言っていた。「だって子供が出来た時にどっちのか判ると困っちゃうじゃない。だからちゃんと二人とするの」そう言って笑った。
 楽しい日々が半年ほど続いた。冬子は少しふっくらして、初めて会った時の冬子に戻っていた。俺達はよく三人で映画を見に行った。そしてライブハウスにも行った。交互に腕を組んで歩いたり三人で繋がって歩いたりした。そして愛について、人生について語り合った。
 冬子は物を欲しがらなかった。下着を少し買っただけで、セーターやシャツは二人の物から気に入ったものを選んで着た。ジーンズは洗濯して乾くまでの間、俺達のパジャマのズボンかトランクスで過ごした。だから冬子が突然居なくなった時も、ほとんどあいつを感じるものは残されていなかった。あいつがいつも持って買物に行ったビニールバッグには、俺達が出し合った生活費の入った小さなサイフが一つ入っていた。そして洗面所にピンクの歯ブラシが一本有っただけだった。
 渡辺と俺は冬子についてしばらく何も語らなかった。何を言って良いのかが判らなかったのだ。冬子が居なくなって一ヶ月位して渡辺が「またひょっこり戻って来るかも知れないな」と言ったのが最後だった。
 それから一年。二人とも無事に卒業し就職をした。それで各々会社の寮に入る事になった。
 俺達は引越の前の日に二人で海に行った。そして冬子の歯ブラシをピンクのサイフを海に流した。お互いに何も言わなかったが、一つの季節の終わりを感じていた。

 あれから八年。たまに渡辺と呑みに行くと、やっと冬子の話が出来るようになってきていた。
 ある日渡辺が呑みながら言った。
 「亨。お前冬子のこと、何か知ってるか?」
 「いや、何も知らない。お前は?」俺が聞き返す。
 「そうだな。俺達は随分いろんなことを話したのに、冬子のことは何も聞かなかったな」
 「そうだよな。暗黙の了解みたいな感じで」
 俺はウイスキーを口に運び、言った。「あいつどこで生まれたんだろう?」
 「あっそうだ。どこか海辺の田舎町だって聞いたことがある。そう、あれはテレビを見てた時のことだ。そんな田舎の風景を見て、私こんな所で生まれたのよって言ったんだ」
 「そうか。あいつ、海の側で生まれたのか。なぁ、渡辺。冬子はなんで居なくなったんだと思う?」俺は思いきって尋ねた。
 「そうだな。あの逃げてきたヤクザに見付かって、連れ戻されたのかも知れないな」
 「だったらまた逃げてきたと思わないか?」
 「だけどまた違う男に拾われたかも知れないぜ」
 俺が言う。「でもな、渡辺。俺ずっと思ってたんだが・・・」
 俺はその後を言うべきかどうか迷った。
 「亨。言えよ。何故だと思うんだ」渡辺が急かすように言った。いつもの渡辺らしくなかった。
 俺が言う。「多分あいつ妊娠したんだと思う」
 渡辺が頷く。「俺もそう思うよ。正直言うと、ずっと怖くて口に出来なかったんだ。それを知ってて探さなかった自分が嫌な奴になりそうでな。でもあいつは一人で子供を産むつもりだったんだ。それで出て行った」
 「俺達の子供だぜ。」俺は言ってみた。そして「でも生まれてきたらどちらかの子供になってしまう」と続けた。
 渡辺は悲しそうに頷いた。そして言う。「やっぱりそう思うか。あの時生まれていたらもう小学生か。男の子だったんだろうか、女の子だったんだろうか・・・」そして続けた。「亨。俺、結婚しようと思って居るんだ」
 「そうか、それは良かった。この間連れてきたあの娘か?」
 「ああ、和子だ」
 「おめでとう」俺はそう言って渡辺のグラスにウイスキーを注いだ。
 「ありがとう。俺は和子を本気で幸せにしようと思っているよ。でも冬子のことがどこかに引っ掛かっているんだ。何をするでもなく、淡々と暮らしたあの半年間のことが。そしてどこかにいるかも知れない俺達の子供のことも。俺、冬子のこと愛してたんだ。そしてその愛はまだ終わってないような気がする」そう言うと俺の注いだウイスキーを一気に煽った。
 俺は言う。「なぁ、お前どうして冬子がいなくなったと思う?俺が思うに、あいつは自分の子供が欲しかったんだ。多分子供が出来たのは事実だと思う。俺もお前も気付いていたんだからな。でも、なら何故居なくなった。冬子は自分の子供が欲しかったんだよ。だから父親を特定したくなかった。それでいつも二人とセックスしたんだ。そうすれば子供は自分だけの子供になるって思ったんだ。そう言う奴だったんだ。自分を傷つけながらしか生きていけない」
 渡辺が言う。「でも亨。あいつが冬子が一人で生きて行けたと思うか?一文なしで大きなおなかの娼婦が生きていけるか?俺達の力なしでちゃんと子供を産めたと思うか?」渡辺は泣いているようだった。そんな渡辺を俺は初めて見た。
 「落ち着けよ、渡辺。今の俺達に何が出来るって言うんだ」
 「ああ。何も出来ないよ。俺にはなんの力もないんだ。そんな俺には誰も幸せになんて出来ないんだよ」そう言ってグラスを床に叩き付ける。驚いたボーイが飛んでくる。
 俺はボーイにチップをやって「ちょっと酔っただけだから。片付けてくれないか」と言った。そして新しいグラスを頼む。
 「なぁ、渡辺。お前、失くしてしまったものをもう一度欲しがってどうするんだ。お前は今の彼女を幸せにすればいいんじゃないのかな。出来るか出来ないかは先にならないと判らないさ」
 渡辺はテーブルに頭を付けて泣いていた。俺は持ってきてもらったグラスにウイスキーを注いで、奴の前に置いた。この位の酒で酔うような奴でないことは俺が一番良く知っている。奴はシラフで泣いていた。そして言った。
 「守ろうとして傷つけたんだよ。俺は冬子に体を売るのを止めさせようとして結局一番ひどいところに追い込んだんだ。だってそうだろう?子連れの娼婦に何が出来るって言うんだ。素直で、純真で・・・」そう言って黙った。
 俺が言う。「ああ。いい奴だったよ。お前の言うとおりだ。それに頭も良かった。だから渡辺、きっとどこかで冬子は元気に生きてるよ。俺達によく似た可愛い子供とな。ちゃんと母親をしてるよ。だって冬子は初めから男に優しさなんて求めてなかったじゃないか。あいつは俺達と寝て、金の変わりに子供を得たんだ。守ってやる者が欲しかったんだよ、多分。あいつの思い出の中では俺達はまだ頼りない大学生のままさ。俺達の中で十九歳の冬子のままの様にな。精一杯生きていると思うぜ。もしかしたらいい男を見つけて子連れで結婚だってしているかも知れない。そうだ、なぁ渡辺。冬子が小説を書いてたのせってるか?」
 「いや、知らない。そんなことしてたのか?」
 「ああ、お前が夜バイトに行ってる時に、俺が寝てから何か書いていたみたいだ。何時か書き損じて捨ててあったのを見たことがある。もしかしたら何時か俺達の青春を書いた本が出るかも知れないぜ。そうしたら冬子が何を思っていたのか判るさ」
 「そんなことがあるだろうか?そんな時が来るだろうか?」
 「ああ。きっとな」
 俺は本気でそうなればいいと思っていた。
 「もし、冬子の産んだ子が渡辺の子であっても俺の子だと思えるだろう。多分お前も同じじゃないのかな。でも結局はその子は冬子の子でしかないんだ。俺達がもし大金持ちに成れたら死ぬ前にその子を見つけだして相続権をやろうじゃないか。大金持ちになれなかったら墓場まで思い出として持って行こう。俺とお前の秘密だ。だからお前は今の彼女と幸せになれ。そして幸せな子供を作れ。きっと冬子がそれを一番望んでいると思うぜ」
 「そうだろうか?俺の幸せを冬子は喜んでくれるだろうか?」
 「ああ。俺が保証する。どんな悲惨な生活をしていたとしても、冬子はお前の幸せを喜んでくれるよ。あいつはそういう奴だろう?渡辺もよく知っているじゃないか」
 「ああそうだよ。娼婦だったけど天使だったんだ」
 「そうさ、あいつは何をしていても結局天使だったんだよ」
 俺達はそれから一時間ほど飲んで別れた。

 俺は一人で自分の部屋のベッドに寝っころがり、ウイスキーを飲んだ。
 渡辺が結婚する。俺達ももう三十歳になろうとしている。熱く燃えるような青春を過ごさなかったのかも知れない。あの時二人のどちらかでも冬子を強く求めていたら、もっと違った状態になっていただろう。俺も渡辺も冬子を愛していたのに、それを告げることをお互いに避けていた。微妙に形作られたトライアングルが壊れるのが怖かったのだ。あの時どちらかが、いや両方が、冬子を自分のものにしようと求めたら、やはり冬子はいなくなっただろう。それが判っていたから二人とも黙っていた。でもあの時、泥試合をするべきだったんだ。そしてその結果として冬子を失っていたのならきっと渡辺は泣くことなく新しい幸せに向かって歩けたんだろう。
 俺達の時代。世間はシラケの世代と呼んだ。ガンバル事がカッコ悪く、手に入るものだけ欲しがって、中流の生活を良しとした。だけど本当は違うんだ。シラケていたんじゃなくて臆病だっただけなんだ。中流で満足したんじゃない。手に入れることより失うことの方が怖かっただけなんだ。誰もが適当に幸せになろうとしていた。楽に生きるためには、手に入らないものに興味を持たなかった。そのしっぺ返しが今俺に襲いかかっている。汗を流さなかった分涙を流し、血を流さなかった分言葉を求めなければならない。そして幾ら涙を流しても、どれだけ言葉を重ねても手に入らないものがあることを知っていながらそうすることしか出来ない。俺が冬子の妊娠に気付いたように渡辺も気付いていた。にもかかわらず二人とも忘れようと努力し、知らん振りを決め込んだ。そして冬子もまた同じように知らん振りをしていた。冬子は幸せに成れただろうか?多分冬子は子供を産んだだろう。そして青春のつけを返したんだ。渡辺はつけを持ったまま幸せになるだろう。俺はそのつけを払えるのだろうか?幸せを求めることが出来るのだろうか?俺は冬子を愛していたのだろうか?
 冬子の歌が聞きたい。
 「冬子、俺はお前を愛してたんだ。確かにあれは愛だったんだ」声に出して言ってみた。

 俺はいつの間にか眠っていた。夢の中で冬子に会った。冬子は小学生くらいの子供の手を引いて海辺を歩いていた。俺は冬子の名を呼んだ。何度も。何度も、呼びながら、走った。でもその声は冬子には届かなかった。

 目が覚めた時俺は泣いていた。そして起きてからもしばらく泣き続けた。窓からは冬の始まりを告げる、柔らかい日差しが入っていた。窓の外に、冬子の乾かしたショーツが揺れるのを感じた。
 もう一度やり直せるのかい?
 俺はもう一度やり直せるのかい?
 ねぇ、冬子。