春  「冬子」  V
 私はトオルの書いたものを読み終えた。
 原稿用紙にして三十枚程の短いものだった。これは小説と言うより、自分自身に宛てた手紙だ。正人はこれを何時手に入れたのだろう。私はその本をひっくり返して発行年月日を見る。その日付は五年程前の物だった。正人が私と出逢う前だ。それはトオル達が三十歳になろうとする時の心の揺れを書いたものだった。そして正人も昨年三十歳になった。男にとって三十歳とはそんなに意味のあるものなのだろうか。何も考えずに過ごしてしまった私の三十歳。なのに今になって何故こんなに心が震えたのだろう。正人の描いた絵が私の中の何かを力一杯揺さぶった。そして彼は確実に私の中から冬子を引っ張り出した。彼は私に冬子として生きろと言うのだろうか?私には判らない。

 私はベッドから起き上がり、化粧様のコットンにたっぷり化粧水を含ませ、顔を拭う。そしてファンデーションを塗り、眉を描く。アイシャドーで目を作り、いつもより明るいピンクの紅で唇を染める。そして鏡の中で微笑んでみる。いつもの私に戻っていた。気分を変えるために、明るい草色のセーターに着替えた。そしてもう一度鏡に向かって微笑んだ。
 そこには冬子でも春でもない、ただの私が映っていた。それを確認して私は正人の本を持ってリビングに出た。

 彼はリビングのソファーでお寿司の包を前に置いてうたた寝をしていた。
 「ごめんなさい。おなかすいたでしょう?」私が声を掛けると、眠そうな目を開けて私を見た。私はいつもの様に微笑んでみせる。
 彼も微笑んで返した。そして起き上がって言う。「腹へって死にそうだよ」
 私はキッチンへ行って緑茶を入れる。それを持って来て彼の前に置いた。彼が包みを開ける。
 「すごい!張り込んだんだね」
 私が答える。「原稿料が入ったの。どうぞ」
 二人でお寿司を頬張った。私は泣き過ぎたのか味が良く判らない。しかし彼はとてもおいしそうにそれを食べた。
 折の中が空っぽになってから、私は尋ねた。「この本、いつ手に入れたの?」
 「半年ぐらい前かな?友達の部屋で偶然見つけたんだ」
 「いつこれが私だって気付いたの?」
 「その時だよ」
 私はそっとその本を彼に差し出して返す。
 彼はそれを受け取って言った。「何時君に見せてあげようかって、随分考えた。それで君の見たかった絵が巧く描けた時にしようって決めたんだ」
 「それが今日だったのね」
 「そうさ。夕べ仕上げにかかってたら雪が降り出したんだ。それで、真白な雪景色の時に菜の花を見せてあげようって思って徹夜した。でも、君が気に入らなかったらこの本はもっと後に見せようって思ってたんだよ」
 「でも私は気に入った」
 「そう、だから今日君に見せてあげたんだ」
 「どうもありがとう」
 「辛かったかい?」
 「良く判らないわ。その辺の感情って私、良く判らないのよ。私の欠けている部分なのかも知れないわね」
 「僕は君の中に土足で踏み込んだんじゃないだろうか?」
 私は首を振る。「それもよく判らない」
 彼が言う。「春ちゃん、君は何故そんなに自分を押さえ付けて生きるんだい?」
 「判らないわ。押さえ付けてるなんて思ったこともなかったし、こうして生きることしか出来ないんですもの。これが私なのよ。こうして生きているから私で居られるの」
 彼は俯いて首を振った。そんな彼に向かって私は言う。
 「あなたは、自由気ままに娼婦として生きていたあの頃の私を見たいの?」
 彼が顔を上げて大きな声で言う。「冬子!」私は驚いて首をすくめる。
 心地悪い沈黙があった。
 彼がしばらくして静かな声で言った。「冬子。冬子はもう傷つかないで欲しいんだ。そして自分で自分を傷つけることも止めてくれ。お願いだからもう僕の冬子を傷付けないで欲しいんだ」
 「私があなたの冬子なの?どうして?私は誰も愛してなんていないわ。もちろんあなたもよ」
 「でも、僕は冬子を愛してる」
 「そんなのあなたの勝手でしょ?私は私のやり方でしか生きられないの。私は冬子じゃない。今は春として生きて居るの。だからあなたとこうしてここで暮らせているのよ。そうじゃなかったら私はここを出て行かなくてはならないわ」
 「冬子。意地を張らないで。君が冬子で居ても、春で居ても、君は君なんだよ。僕は君の全部を愛したんだ。春で居る君も、冬子で居る君もね。君が冬子に戻ってもバラバラになって、無くなったりはしないんだ。君はこうして生きているし、僕もこうして生きている。僕は確かにどこかが欠けているけど、でもまだ君を愛せる心はなくしていない。君がここを出て行くことで冬子に戻れるのならそうしても構わない。僕ともう会わなくなって心静かに暮らせるのならそうすればいい。そして誰かを愛せるのならそれが一番いいことだ。でも僕の中で冬子は生き続けるんだ。春ちゃんの父親達の中で君が生き続けているようにね。今の君は生きたまま春ちゃんの元へ行こうとしている。それはいけない事だ。決して春ちゃんはそんな事を望んではいない。それだけは確かな事なんだ。あの影の一人に僕をしてくれないかい?僕じゃだめなのかい?」
 私は俯いて首を振る。「判らないのよ。本当に何も判らないの。トオルや渡辺君が私を愛していてくれたことを知って、今心が巧く働かないの。彼らは私が思っていたよりずっと私を愛していてくれた。でも私は彼らの愛に何も応えられなかったの。今あなたが私を愛してくれたとしても、私はどう応えていいのか判らない。私はまだ心が幼い頃に愛をお金に変えて生きてきたのよ。その罰が当たってるんだと思う。私が愛せたのは春だけなのよ。彼女への愛が私のすべてだったの」
 「冬子、それは違う。君が春ちゃんを愛せたのは、彼女が君の子供だったからだけじゃない。彼女の中に君の愛した父親達の血が流れていたからなんだ。君は彼女の父親達を彼女の体を借りて愛したんだ。君は確かに彼らを愛したんだよ。だから罰が当たったりはしないんだ」
 「私どうすればいいの?」彼の顔を見てそう尋ねた。
 彼は無器用に微笑んで見せるとそれに答えた。「君のままでいればいい。もう五年近くも僕達は巧くやってきたじゃないか。普通の夫婦みたいにね。そのまま行ってもいいんじゃないかな。ただ僕は君を愛している。それだってもう半年もこうして愛して来たんだ。でも、何も変わったりしなかった。このまま一緒にいられるだけ居たらいいんじゃないかな?」
 「あなたはまたお金を持って私を買いに来るの?」
 「そうだよ。それで断られるんだ」
 「私がお金を持ってあなたを買いに行ってもいいのかしら?」
 「もちろんさ。でも、気分が乗らない時は断るよ」
 「じゃあ今日は気分はどう?」
 「悪くない」
 「私今日はちょっとリッチなの。たまには無駄遣いしてもいいかなって思ってる」
 「それはいいかも知れないよ。僕は今とってもプアーなんだ」

 私は自分の部屋に戻ってお金を持ってきた。彼はそれを受け取ると自分の部屋に招き入れる。
 途中で私は月と菜の花の絵をもう一度ゆっくり観た。彼も私の肩の抱いたまま隣でそれを観る。
 「ほら、僕達の影がそこに写ってるんだよ」
 私は座ってそっとその影に触れてみる。少しザラッとした手触りだった。
 「私が動いてもこの影は動かないわ」
 彼が私の頭の上で言う。「この影は心の中にあるからね」
 私は立ち上がってもう一度彼の横に並ぶ。本当にその影は私達の足元から繋がっているようだった。

 彼のベッドに腰掛ける。
 「あなたの部屋に入ったのって初めてよ」
 「そうだったっけ?」
 「そうよ。一番初めの時もアトリエから覗いただけですもの」
 「僕のベッドへようこそ。このベッドに寝るのは君が初めてだよ」そう言って私の隣に腰を下ろして肩を抱く。そして私をのぞき込むようにして口付けをした。
 私は力を抜いて目を閉じて、言った。「お願い。そっと、優しくして」
 彼はそれには答えずに、そのまま私をベッドに横たえ、抱いた。ゆっくり時間を掛けて、とても丁寧に。
 私は目を閉じて月と菜の花を見ていた。そして思い出した。私はいつも誰かに体を売る時にあの風景を見ていたんだ。体のすべての感覚から心を切り離して、あの風景を見ていた。私は正人の背中に腕を回してみる。滑らかな手触りだ。余分な肉もほとんどない。私は彼の頭を両手で持って、少し私から離す。ちゃんと目を開けて彼の顔を見た。口付けを求めた。それはいとおしいものだった。彼はとてもゆっくり私の中に入ってきて、私は彼に充たされていた。彼はしばらくそのまま私の胸を玩んだり髪を撫でたりしていた。
 彼が問う。「痛くない?大丈夫?」
 「大丈夫よ」
 私が答えると彼は自分の快感に向かって走り始めた。それは私の快感にも繋がって居たのかも知れない。しかし私は途中で取り残されてしまった。現実は小説に書くように巧くは行かないものだ。それでも私は払った金額分以上の満足感を得た。

 彼が言う。「自信、あったんだけどな」
 「私の方に問題があるのよ。随分長いブランクですもの。ほとんどバージン状態よ」
 「それって儲け物かもね。今時バージンなんて滅多にお目にかかれないよ」
 「経産婦のバージンなんて居るもんですか。バージン状態なのはこっち側だけよ」
 「それって、良くないって言う事なの?」
 「判んないわ。途中で痛くなっちゃうのよ。でも、昔だってそんなに気持ちいいものじゃなかったから、だからずっと無しでも平気だったのよ」
 「じゃあ、ちょっと続けてやった方がいいよ」
 「そんなにリッチじゃないわ」
 「ローンでもいいよ」
 「あなたねぇ」
 彼が笑って言う。「回数券を作ってあげようか?」
 私も笑いながら答える。「商売上手ね。でも、今度は私がお金を貰ってすることにするわ」そう言って起き上がり服を着る。
 彼が横になったまま言う。「僕が買う時はもう少しロマンチックに頼むよ」
 私は振り向いて言う。「素敵だったわよ」
 「ありがとう」彼はそう言って微笑んだ。

 私は彼の部屋を出て、アトリエの絵をもう一度観てから、バスルームでシャワーを浴びた。くしゃくしゃになった髪を洗い、体も洗う。それは私にとって二度目の産湯だったのかも知れない。

 あの雪の日からほんの二週間程で春はやってきた。あの事があってからも彼が言ったように私達の生活は何一つ変わらなかった。彼はそれまでどうり私の事を春と呼び、私の事を尋ねたり、束縛しようとしたりはしなかった。彼がデートに行かなくなった分二人で食事をすることが増えたぐらいだ。それも最後の彼女と別れてからと同じぐらいだった。
 あの後彼が一度私を買いに来て、その後私が一度彼を買った。そして私が生理になってそれはおやすみになっている。

 暖かい春の朝、私はお弁当を作った。
 卵焼きを焼き、冷凍のコロッケを揚げる。ウインナーをカニとタコの形に切って炒め、鰹節と梅干し入のおにぎりを作った。正人はそれを弁当箱にとてもセンス良く詰める。
 「さすが!芸術家ね」
 「絵を描くのと一緒だよ。そうだね、この辺りにグリーンが欲しいんだけど何か無い?」 
 「ブロッコリーでも茹でましょうか?」
 「それでいい」
 私は簡単にブロッコリーを茹で、水で晒して彼の前に置いた。それを彼がつまんで詰める。「ほら、完璧だ」
 「本当ね。まるで絵の様よ」
 「今度、お弁当の個展を開こうか」
 「材料は私が作るの?」
 「もちろんだよ」
 「面倒だわね。それに個展が終わるまで食べられないんでしょう?腐っちゃうわよ」
 「それもそうだ」
 私は出来上がったお弁当を紙で包んでバスケットに入れる。
 「お茶はどうするの?」
 「自動販売機で買えばいいよ」
 彼がバスケットを持って、私達は海辺の水族館へ向かう電車に乗った。平日、朝遅い時間帯。動物園の時と同じで、電車はすいていた。車窓から見える景色は、初め町の風景だったが、三十分ほどで遠くに港の風景が見えだし、その後海岸線に変わった。一時間ほど電車に揺られて水族館へ向かって歩いた。
 「ねぇ、正人君。水族館の玄関が閉まってるわよ」
 「あれっ、お休みなのかな?」
 私達は二人で入り口の前に立つ。
 「休館日だって。月曜日はお休みって書いてあるわよ。何でこんな日に来ちゃったのかしら」
 「なんでって。休日は人が多いし、明日からはお天気が崩れて雨が降るって予報が出てたからだろう?」
 「そうだったわね。じゃあ、仕方ないわね」
 彼が言う。「まあいいじゃないか。どうせここではシャケの泳いでる姿なんて見られなかったんだし。お弁当はもってる。そうだ、海って月曜日に休んだりしてないよね?」
 「多分ね」
 「だったら海岸でお弁当を食べようよ。ここの裏っかわに回ればいいんだろう?」
 「確かそうだったと思うわ。どこかでお茶を買いましょう」
 「ねぇ春ちゃん。さっきここに来る前に酒屋さんがあって、店の前にビールの自動販売機があったんだけど、お茶よりそっちの方がいいと思わない?」
 「そうね。水族館に入らないだったら少しぐらい酔っ払っても大丈夫よね」
 「決まりだね。ビールを買おう」そう言って私達は来た道を少し戻って缶ビールを買った。それを持って海岸に出る。

 海はとても穏やかに春の日差しを浴びていた。私はお弁当を包んであった紙をはがして砂の上に拡げる。その上に並んで腰を下ろすと、太陽の光で暖まった砂がとても気持ち良かった。彼がビールの栓をあけて私に差し出した。私はそれを受け取り、膝の上にお弁当を乗せ、彼にお箸を手渡す。彼はビールを飲みながらタコのウインナーから食べ始めた。私は卵焼きから食べる。
 「おいしいね」彼が言った。
 私が言う。「何しに私達ってここまで来たのかしら?」
 「もちろんお弁当を食べにだよ」
 「一時間も電車に乗って?」
 「そう。とってもリッチだと思わないかい?だってみんなはちゃんと働いてるんだよ」
 「そう言われればそうね。私、子供の頃風邪なんか引いて学校を休んで病院へ行った時にね、すっごく自由を感じたのよ。みんなが机の前で勉強している時間に、道端の草に咲いてる花なんか見ながら歩いているって言う事に対してね。早く学校へなんて行かなくっていい歳になって自由になりたいって、ずっと思ってたわ。今でもあの時の日差しの色や、風の匂いを思い出せる。遠くの空は何だか霞んでいて、近くの、そう、道端の物なんかが、虫眼鏡で見たみたいにいやにはっきり見えるのよ。でもその色がなんて言っていいのか判らないんだけど、とてもはっきりしているようで、霞んでいるようで、とっても不思議な色なの。ちょうど今日みたいなお日様の色だったわ」
 「どんな花が咲いてたの?」
 「小さなハコベの白い花や、母子草や、ペンペン草よ。まだ自分の背が低い頃だったからそんな小さな草花達がとても近くに見えたのよ。でも今は背が伸びちゃったからかも判んないけど、草花より木に咲く花の方がよく見えるわ。梅が咲いただとか、桃のつぼみが随分膨らんだだとか、桜はもう少しだなって」
 彼は一本目のビールを開ける。
 「そうだね。僕も毎日散歩するけど、上の方を見てるほうが多いような気がするよ。それに今は道がコンクリートやアスファルトになってるから草花も少なくなってるんじゃないかな?」
 「でもきっと今も咲いてるのよ。だって雑草ってとっても強いもの」
 「今度散歩の時に見つけたら教えてあげるよ」私は頷いた。
 それにしてもとても気持ちの良い日差しだった。私は目を細めて太陽を見上げる。すると太陽の暖かさが頬や額に口付けをしてくれた。そのまま目を閉じると太陽の残像が私の目の中に焼きついていた。
 私達は食べ終えた弁当箱を片付け、並んで海を見ていた。
 私は何度も左手で砂をすくい、それを指の間からこぼす。彼は砂で灰皿を作り、煙草に火を付けて、とても気持ち良さそうにそれを吸い込み、ゆっくりと白い煙を吐き出した。
 私は指の間からこぼれ落ちる砂を見ながら彼に尋ねる。「今、何を描いているの?」
 彼が一本吸い終わった煙草を砂の中に突っ込んで消して答える。
 「いろんな春の絵を描こうと思ってるんだ。またグループ展をやろうと思ってね。四人の仲間と一緒に四季の絵を描こうと思ってる。僕が春で、山崎って言う奴が夏を描く。そして秋は松永で、冬を描く奴を今探しているんだ」
 「みつかりそう?」
 「ああ。何人かに声は掛けてある。返事待ちだよ」
 「そう。面白そうね」
 「そうなんだ。四角い画廊の壁の一面が一つの季節さ。それを一巡りすると一年が終わりさ」
 「すぐに歳とっちゃうわね」
 「嫌だったら逆に回ればいい。そうしたら若返っていくかも知れないよ」
 「なるほど。でも私は今の歳でいいわ。若かった頃にはもっと肌もきれいで、スタイルだって若々しかったかも知れないけど、でも今の私が好き。もし若返ったとしてもきっとまた同じ事をするって思うもの」
 「春ちゃんは、自分のしてきた事に後悔していないの?」
 「後悔するべきことは山ほどあるわ。でもその時その時で、私の出来ることをしてきただけですもの。私は選択するべきものなんて持っていなかったのよ。周りが真っ暗で私の来た道しか見えていなかった。だからまた元に戻っても、その道しか見えないに決まってるわ」
 「そうかも知れないね。僕だってきっとやり直しても同じ事しか出来ないだろう」
 「また同じ人を好きになって、そして逃げ出してしまうのね」
 「多分ね。だって、好きになる時は他に何も見えていないんだ。ただ突然その娘の素敵なところだけが僕の中に入り込んできて、それがすべてだって思ってしまうんだ。そしてある程度時間が経って、それがすべてじゃないって気付く。それを何度も繰り返したんだ。きっと戻ってもまた同じ事だね」
 「あなた、また恋を見つけられそう?」
 彼は新しい煙草に火を付けて言う。「どうだろうね。今は君に恋をしているからね」
 「それも突然やって来たの?」
 「いや。そうじゃない。徐々にジワジワと僕の中に拡がって来たんだ。燃える様な恋じゃないけど、確かに僕は恋をしている」
 「今度は巧くコントロール出来ているのね」
 「随分練習したからね。でもそれだけじゃ無いようにも思えるよ」
 「どんな風に違うの?」
 「そうだね。君を見てると所有欲とか独占欲とかが沸かないんだよ。何だかそう言うのが馬鹿馬鹿しくってね」
 「それって、お金で私を買ってるからじゃないかしら?」
 「じゃあ、君はどうなの?」
 「私?私は今までと変わらないわ。まだ、あなたを愛してるのかどうか、あなたに恋をしているのかどうかも判らないもの」
 「きっとそのせいだよ。お金のせいじゃなくて、君が僕を愛していないからだ。片思いみたいなものだからだよ」
 「でも、私は他にも好きな人なんていないわよ。それに、私は他の誰のものでもないわ」 
 「そうだね。そして僕のものでもない」
 「恋をすると、その相手を自分のものにしたくなるものなのかしら?」
 「大体はね」
 「そう言うものなんだ」
 「君はそんなふうに思った事って無い?」
 「無いわね。生きるのに精一杯で考えた事もなかったわ。ただ私の書く小説の中だけの事だと思ってた。誰かが小説の主人公の女の子を強く求めて、そして愛し合うの。そしていろんな障害を乗り越えて結ばれる。大体がハッピーエンドなのよ。だって女の子はみんなそんな物語に憧れてるんですもの」
 「でも君はそうじゃないだ」
 「そうね。だって乗り越えるべき障害もなければ、そんなに心引かれるものも無いんだもの」
 「でも、たまにときめいてみたくなったりしない?」
 「ときめく?」
 「そう。会っている時や会う前にドキドキして、別れると心が寂しさで苦しくなるんだ」
 私は首を振って答える。「無いわね。これって悲しむべきことなのかしら?」
 彼も首を振って言う。「多分ね。誰も君を求めなかったのかい?」私は頷く。
 「君は誰も求めなかったの?」
 「ええ」
 「春ちゃんが病気になった時や、心細くなった時に、春ちゃんの父親を求めたりもしなかった?」
 私は暫くその問いに対して考える。そして答えた。「誰も助けてくれないことをちゃんと理解していたもの。そんな無駄なことを考える暇なんてなかったわ。春が生まれる時にとっても難産でね、もうだめだって何度も思ったのよ。それでも春を産みたかった。何故かあの時、この子は生まれさえすれば一人でも生きて行けるって思ったの。もし、どちらかの命が助からないのなら私が死のうと思ったわ。でも彼女はちゃんと生まれてくれた。そして随分私を楽しませてもくれたし、幸せにもしてくれたわ。なのに事故で死んじゃった。そして彼女が死んだ後も私はまだ生きている。彼女が生きている時にはこんふうに思ってたの。この子が居なかったら私は絶対生きてなんて居られないってね。でも私はこうして生きているわ。あなたは私を愛してるって言ってくれるし、あなたに抱かれることで充たされもする。そしてあなたは私の絵を描いてもくれた。きっとこれってとっても幸せなことなのよ。でも、私はその幸せを素直に受け止めて、自分の幸せを認める事が出来ないでいるの。あなたには本当に申し訳ないって思ってるわ」
 「春ちゃん。そんなん事君が気にすることじゃないよ。ただ、これからの事を考えようよ。君の過去はそのまま過去として大きな風呂敷に包んで背負っていればいいじゃないか。それを捨ててしまう事なんてない。ただ少しちゃんと整理して背負いやすくまとめればいいんだ。僕は少しその荷造りを手伝ってあげたかっただけなんだ。それがあの月と菜の花の絵なんだよ。僕がちゃんと力をつけて、君の荷物ごと君を抱えられればいいんだけど、残念ながら今の僕にはそんな力は無い。これからだってそんな力が付くかどうかは判らない。だから君は君で歩いていればいいんだ。そして僕がその君の手を握って一緒に歩いていられればいいなって思うよ。君を抱えられないことが判っているから君に対して所有欲も独占欲も沸かないんじゃないかな。でもこれも確かに一つの愛であって、恋する気持ちの様な気がする」
 「そんなものなのかしら?」
 「そうだよ。だって僕は君が幸せになるところを見たい。例えそれが僕によってもたらされたものじゃなくってもね。それって愛だと思わない?」
 「多分愛だと思うわ。でも私にとって愛って何なのかしら?」
 「そんなの判らないよ。それは君が見つけなきゃ。僕の幸せと君の幸せが同じものであるはずないよ。みんな一人づつ違う顔をしているように、幸せの形や手触りもみんな違うものだと思うな。君が君の幸せにまだ出逢っていないのなら、いろんなところを探してみればいい。僕は小説家でも、詩人でもないから、君の心を動かすような言葉は見つけられないけど。でも何時かまた君の心を揺さぶるような絵を描いて君にプレゼントするよ。君は小説家なんだから僕にまた言葉をくれないか?君の言葉は僕にとても素晴らしい絵を見せてくれる。その絵はとても古惚けていて、なおかつ斬新でもある。誰もが眠っているうちに見過ごしていたものを君は見て来たんだ。僕はそれを僕のものとして絵にする。月と菜の花は君の絵だけど、何時かは僕の絵もあの君のくれた言葉で描いてみようと思っているよ。それを君が見た時に僕の絵が君の心を揺さぶる事が出来るといいなって思う。何だか巧く説明できてないような気がする」そう言って砂を掴んで海に向かって投げた。
 彼の優しさは、ある時とても冷たくもあり、火傷するほど熱くもある。しかし彼にとってそれは紛れもなく優しさであることが私には理解出来た。片寄った形の美しさなのかも知れない。月は丸くなくても美しいものなのだ。
 私は彼に言ってみた。「もしかしたらあなたを愛する事が出来るかも知れないわ。でもそれが何時になるかは判らないの。私のレベルでは多分愛し始めてると思うんだけど、あまり経験がないから良く判らない。これが愛に繋がっているのか、全く違う感情なのかって言う事がね。でも何となくなんだけど、もっと時間を掛ければはっきりしそうな気がするの。だって私、本当にあなたに感謝しているのよ。こうしてあなたと話すことで、私は独りぼっちじゃないって思えるし、あなたとするセックスだってとても素敵なものよ。今までのどんなセックスとも違うわ。目を閉じてあの月と菜の花の絵の中に逃げ込まなくてもいいセックスなんて初めてだったの。あれは私の隠れ家だったのよ。あそこに影がある事があなたには判っていたのね。あなたの優しさと私の求めているものがどこかで重なっていたのよ。私は言わなかったのにあなたはあの影を感じ取っていた。でもそのことにどんな意味があるのかは、今の私には判らないわ。でも何時か判ればいいなって思ってる」
 「そうだね。でも、そんな事判らなくてもいいんじゃないかな。だって僕達はこうして生きて居るんだもの」そう言って彼は微笑んで見せた。

 私達はお弁当のゴミと彼の吸い殻を片付けて海岸を散歩した。
 彼と繋いだ掌が、私にはコンセントに差し込まれたプラグのような気がした。彼の電気が私の中に流れ込んで、今まで眠っていた自分が動き始める。私はまた、自分の書きたい小説を書こうと思った。春の為でも、お金の為でも無く、彼の言った自分の荷物をまとめる作業としての物語をだ。そして、いつかその物語に彼の絵を乗せられたら素晴らしいとも思えた。

 海岸をゆっくり散歩して、その後少し歩いて丘の上にある植物園へ行った。そこの温室で珍しい南国の植物をみて、お茶を飲んだ。そして午後の早い時間にそこを出て電車に乗った。家に帰り着くころには日は随分傾き私達のマンションが夕日に照らされて朱色になっていた。
 
 「夕食はどうしようか?」部屋に入って彼が言った。
 「何か作りましょうか?」私が尋ねる。
 「ねぇ、ちょっとおしゃれしてレストランへでも行かない?」
 「今、そんなにお金ないわよ」私が答える。
 「大丈夫。僕は今日、ちょっとだけリッチなんだ」
 「ごちそうさま」私はそう言って自分の部屋でお気に入りのニットのワンピースに着替える。
 リビングで待っていると、彼がいつものジーンズじゃなく、ちゃんとしたウールのパンツにツイードのジャケットを羽織って出てきた。
 「なかなか、カッコいいわよ」私がそう言うと、彼はちょっと照れ笑いを浮かべながら言う。「ちょっとは見直した?」
 「そうね。あなたのそう言う姿って、もう半年ぐらい見てなかったもの」
 「デートに行く時ぐらいしかおしゃれしないからね」
 「そうそう。たまにはカッコいい所見せといた方がいいわよ。そうしたら少しトキメクかも知れないもの。見た目って結構大切よ」
 「春ちゃんだっていつもジーンズにセーターじゃないか」
 「それでも愛してくれる人はいるのよ」
 「誰だい、そんな物好きは?」
 「あなたの知らない人よ」
 彼が笑って尋ねる。「どんな人?」
 私も笑って答える。「ちょっと変わってるけど、基本的には優しい人よ。でも、プレイボーイで女の子を泣かせてばかりいる悪い奴なの」
 「なのに君を愛してるのかい?」
 「そうらしいわ。彼、そう言ってたもの」
 「だまされないようにしなよ」
 「ご忠告ありがとう。良く覚えとくわ。ところで何を食べに連れて行ってくれるの?」
 「そうだね。フランス料理を食べちゃうと、帰って君を買えなくなる位のリッチさ加減なんだけど」
 「イタリア料理か飲茶位だったらどう?」
 「それだったら大丈夫だ。ちゃんと君も買える位だよ。どっちがいい?」
 「フランス料理がいいわね」
 「春ちゃん。意地悪だね」
 「悪い男にだまされちゃいけないって今あなたが言ったのよ」
 「僕は悪い男じゃないよ」
 「本当?」
 「本当だよ。君をだませる程、度胸なんて無いんだ」
 「随分弱気ね」
 「だってそうだろう。それに君をだましたってなんの得にもならないよ」
 「損得の問題なの?」
 「多分ね。でも、もしかしたらただで君を抱けるようになるかも知れないけどね」
 「それって得になるのかしら?それ程私に価値があるかどうかよね」
 「難しいところだね。きっと君を愛している男にとって少しは価値があるだろうし、そうでない男にはなんの価値もない」
 「面倒臭いわね。あなたはいったい何を食べたいの?」
 「ロシア料理かな?」
 「判ったわ。それをご馳走してもらうわ」