春 「冬子」 W
結局私は彼が良く使っているらしいロシア料理のお店に連れて行ってもらった。彼は慣れた感じで私をエスコートして店に入る。
店の人が彼に声を掛ける。「正人、久しぶりだな」
彼は片手を挙げてそれに答える。そして私に言う。「あいつ、僕の同級生なんだ。同じ美大に通ってたのに、いつの間にか料理人になってたんだ。結構旨いものを作るんだよ」私は頷く。
私の知らない彼の姿だ。本当に私は五年近く同じところで暮らしているのに、彼について何も知らない。私に対する彼の姿しか知らなかったので、そんな彼を見て少しドギマギしてしまった。当たりの前のことなのに、彼がちゃんと外の世界で生きて居るのを見ることでそれを知らなかった自分に、何か負い目のようなものを感じさせていた。
彼はウォッカを一本頼んだ。それはビンごと冷凍庫で冷やされていて、グラスも同じように凍り付いた物が運ばれてきた。彼がそれを二つのグラスに注ぎ分ける。中のお酒はまるで濃い砂糖水のようにトロトロしている。
私はその冷たいグラスを受け取って尋ねる。「これってとっても強いんじゃないの?」
「そう。アルコール分が多いから中は凍らないんだよ」そう言って彼はそれを咽の奥に放り込むようにして飲んだ。
私はそっと嘗めるようにしてそれを飲む。
彼が笑って言う。「せっかく凍らせてあるんだから、そのまま咽の奥に放り込んで。でないと飲めなくなっちゃうよ」
私は頷いてやってみる。冷たいものが咽を通り過ぎ、胃の中でそれは熱いものに変わった。
「巧い、巧い」彼はそう言って空になったグラスにまたその熱く変わる冷たい液体を注いだ。私はそんな彼に言う。
「あなた、私を抱えられる位の力はある?」彼が首を傾げる。
「物理的に、私一人を抱えて歩く自信はある?」
彼が答える。「心配しないでいいよ。僕が引きずってでも連れて帰ってあげるから。ただ僕が先に潰れないかぎりね」
私は頷いて二杯目のウォッカを咽の奥へ向けて放り込んだ。
彼は何も頼まなかったが、次々と料理が運ばれてきた。ロシア風の水餃子やパンを被せて焼いたシチュー、それにキャベツの酢付けに、ピロシキに、スパイスをまぶしてオーブンで焼いた肉などだ。そのどれもが私は気に入った。
ほとんどの料理を食べたところで彼の友達が私達のテーブルにやってきて挨拶をした。
正人は私を遠藤春と言って紹介した。彼の友人は、中島優介と言う名前だった。二人は正人、優介と呼び合っていた。正人が優介さんに言う。
「春ちゃんがね、物理的に自分を抱えられるかって尋ねるんだよ。僕がどれだけ力持ちか説明してくれないか?」
優介さんが笑いながら答える。「春ちゃん。大丈夫だよ。こいつは昔パリに居た時に酔っ払って、止めてあった自動車をセーヌに放り込もうとして僕と二人で持ち上げたことがあるんだよ。二人で十メートルぐらいは動かしたんだ。途中で持ち主に見付かって追い掛けられたけどね。まあ、あの時は逃げた逃げた。こいつは力もあるけど走るのも早い」
「それって犯罪じゃないの?」
「まあ、今考えるとそうなんだけど。でもその時はただの悪戯だったんだ。だからきっと大丈夫さ。春ちゃんが幾ら見た目より重くっても車ほどはないだろう?」
「もちろんよ」
「じゃあ、もっとどんどん飲んでって。きっと正人が送ってくれるよ」
「どうもありがとう」
「ところで料理はどう?」
「とってもおいしいわ。今度正人君にも教えておいてくれるかしら」
正人が言う。「春ちゃんが習えばいいじゃないか」
「たまにはあなたが作ればいいじゃない」
優介さんが言う。「食べたくなったらここへ来てくれるとありがたいんだけど」
「それもそうね。ご免なさい、変なお客で」
彼は感じ良く笑って御辞儀をして言う。「どう致しまして。ゆっくりして行ってね」そして彼は仕事に戻った。
正人が言う。「いい奴なんだよ。いらないことは言わないし。職人だよ」
私は頷いて言う。「あなたの友達がみんなあんなにいい人ばかりだといいわね」
「それは判らない。みんなそれぞれだもの」
「また違う女を連れてるのかって言わなかったわね」
「だからいらないことは言わないって言ったんだよ」
「なるほど。私もう酔っちゃったのかしら」
「まだだと思うよ。ほら、もっと飲んで」そう言ってまたウォッカを注いだ。
私はそれを飲んで言う。「もうこれで限界よ。歩けないかも知れないわ。それにおなかも一杯だから、随分重いわよ。もしかしたらトラック位の重さかも知れない」
彼が笑う。「だったら、優介に助っ人を頼まないといけないな。車だってあいつと二人で持ち上げたんだから」
「まあ、だらしないわね。ちゃんと一人で抱えてよ」
「判ったよ。じゃあ帰ろうか」私は頷いて立ち上がる。
思ったより足元はしっかりしていた。彼がレジで精算をしている間に、私はコートを持って店を出る。昼間はあんなに暖かかったのに、さすがに夜は冷え込む。しかしその寒さの中で月が冴えた光りを放っていた。
彼が精算を済ませて出てきたところで、私は言った。「御馳走様でした。またお願いします」
彼が笑って言う。「今度はフランス料理にしようか?」
「あなたの絵が売れたらね」
「ごもっともです」彼はおどけてそう言った。そして私の持っていたコートを私に着せ掛けて言う。「ちゃんと着ておかないと風邪を引くよ」そう言って腰に手を回して私を支え、タクシーを止めた。
タクシーでマンションの入り口まで帰ってきた。彼が先に降りて私の手を取って私を降ろす。車にゆられて居る間に私は酔いが回ったのか、真っ直ぐなはずの柱が斜めになっていたり、見ようとするものが何重にも重なりぼやけて見えた。私は自分の勘を頼りに足を前に出す。何だかふわふわの雲の上を歩いているような感じだ。
「ねぇ、私どの位飲んだの?」
彼が答える。「二人で、丁度一本無くなってたよ」
「あなた、随分飲んだのね」
「違うよ。ほとんど半分づつ飲んだんだよ」
「そんなに飲んだの?じゃあ、少し位目が回ってもおかしくないわね。でもさすがにあなたはちゃんとしてるわね」
「春ちゃんを連れて帰らなきゃいけなかったからね」
「ごめんなさい。ご迷惑をお掛けしました」
「どう致しまして。ほら、エレベーターが来たよ。大丈夫?」
「多分ね」私はそう答えてエレベーターの中に向かって足を踏み出す。
私は酔いの回った頭で、こんな時私の書く女の子は彼の腕の中に倒れ込んで彼に支えてもらったりするのだろうと思った。しかし私は少し背中を壁に預けはしたが、ちゃんと床を踏みしめて立っていた。この足で歩いてきた年月のなせる技だ。少し位酔っていたって歩く位簡単なことだ。でも、こう言うのを可愛くない女だと言うのだろう。そんな事を考えているうちにエレベーターは私達の部屋の階に着いた。
彼が私の腰に手を回して壁から私を引き剥がすようにして立たせた。そして抱えるようにして歩かせる。
「大丈夫よ。一人で歩けるわ」そう言って私は、バッグに手を突っ込んで部屋のキーを探す。しかしそれはなかなか見付からなかった。彼が私の目の前にキーをぶら下げて言う。
「多分君はキーを持って出なかったよ。だって出かける時にテーブルの上に君のキーがあるのを見たもの」そう言ってそのキーでドアを開けた。
私は部屋に入って靴を脱ぐ為に屈み込んだ。その途端にバランスを崩して入り口に座り込む。
彼がのぞき込むようにして言う。「大丈夫?」
私は座り込んだまま言う。「確かあなた力持ちだったのよね。ちょっとどの位力持ちなのか見せてくれない?」
彼も靴を脱いで言う。「判ったよ。どこまでお運びしましょうか?」
「取敢えずリビングのソファーまででいいわ」
[OK」彼はそう言って私を軽々と抱え上げる。そして自分の体でドアを押し開けてリビングに入り、部屋の中を一週してから私をソファーに下ろした。
私はソファーの上に寝そべって言う。「こんなに上手に抱えられるのなら、もっと早くお願いすればよかったわ」
彼がそれに答える。「遠慮することなんてないんだよ。僕だってもう随分男をやってるんだから、女性を抱えることぐらい平気さ。ちょっとしたコツがあるんだよ」
「やっぱり力よりテクニックの問題なのかしら?」
「そうだよ。力だけでは巧く抱えられないんだ。練習が必要なんだよ。ところで何か飲む?」
「冷蔵庫にアップルジュースが有るの」
「判った。僕はもう少し飲んでもいいかな?」
「もちろんよ。私、ここからだったら這ってでも自分の部屋に帰れるもの。それにここで寝ても別に構わないし。だから心配しないで好きなだけ飲んで」
「ありがとう」彼はそう言って私にはアップルジュースを、そして自分にはブランデーのオンザロックを作ってきた。
私はソファーに起き上がってそれを飲む。
「ねぇ、あなたに私がお水を上げる時ってどのぐらい飲んだ時なの?」
彼はブランデーを一口飲んで答える。「そうだね。今日のウオッカより、もう少し強いのを一人で一本以上空けた時かな?」
「もっと強いのがあるの?」
「そうだよ。今日は君の為に少し弱いのにしたんだ。でも今日飲んだくらいのが一番おいしいんだよ。強いのを飲む時は酔いたい時だけだ」
「とても辛いことがあった時とか?」
「そう。それ以外に酔いたい時なんてないよ。嬉しい時には飲まなくっても楽しいもの」私は頷く。
彼が尋ねる。「君はあまり飲まないの?」
「そうね。あなたとたまに飲むぐらいよ。私の友人もあまり飲まないし。たまに飲んでもみんな陽気なお酒よ。ワイワイ騒ぎながら食べて飲むの。大体女性同士で飲む時って食べることの方に重点があるもの」彼が頷く。
「そう言えばあなたパリに居たって言ってたわね」
「ああ。学生の頃にね。一年間向こうにいたんだ。優介と一緒に行って、あいつだけ途中でソ連へ行っちゃったんだ。何故だったんだろう。判らないんだけど、あいつは突然ソ連へ行って、僕一人がパリに残った。それであいつが日本に帰ってきたのは僕より一年後だったんだ。そしていつの間にかロシア料理のシェフだよ。変わってるんだ」
「本当ね。でもあなたは何故なのか尋ねなかったんでしょう?」彼は頷く。
「そうだと思った」彼が私に笑って見せる。
私が続ける。「あなたパリで何をしていたの?」
「ずっと美術館へ行ってた。それで後はセーヌのほとりで絵を描き続けたんだ。そしてその絵をモンマルトルで売ってお酒を飲んでた」
私は頷く。「その頃の絵を観たいわね」
「残念ながら一枚も持って帰らなかった」
「どうして?」
「僕のパリは僕の中にあるだけで充分なんだ」
「いい恋をしたのね」
彼はただ微笑んでみせ、そしてブランデーを飲んだ。
私は彼の中の過去を見るべきなのだろうか。彼は私の過去を偶然知った時、随分ショックを受けたようだった。多分あの動物園の頃がそうだ。突然テンションが落ちて、何も描けなくなっていた。私のせいだけでは無いにしろ、少しは私の過去にも責任があったのだろう。私は彼の過去を知る事によってショックを受けるのだろうか。さっき初めて彼の外での顔を見た時の後ろめたさのような居心地の悪さは何だったんだろう。よく判らなかった。私は酔いに任せて言ってみる。嫌だったらきっと彼は答えない。
「パリでの恋が、初めての恋だったんでしょう?」
「どうしてそう思うの?」彼が反対に尋ね返した。
私は彼のグラスのブランデーを少し飲んで言う。「あなたの愛し方って、日本的じゃないのよ。それに女性の扱い方もね」
彼が頷く。「そうかも知れない。あの時の彼女が僕にすべてを教えてくれたのかも知れないね。君が言うように、何もかもが初めての経験だったから」
「どんな人だったの?」
「興味ある?」
「何となくよ」
「伯爵夫人さ。僕より十五以上年上だった。大人だったんだ。僕は一生懸命背伸びして。でも結局は届かなかった」
「素敵な人だったのね」
「いや、寂しい人だった」
「あなたって、寂しい人に引かれる癖があるのね」
私の顔を見て笑う。「かも知れない」そう言って私の肩を抱き寄せる。
私は彼にもたれかかり、彼の指先を玩ぶ。彼はもう一方の手でブランデーを注ぎ足す。それを私が横取りして少し口に含む。
「もう、随分酔ってるんじゃないの?」彼が言う。
「そうね。ちょっと飲み過ぎね」
「構わないよ。欲しいだけ飲めば」
「でも、二日酔って辛そうね」
「それは言える。本当にいつも後悔するんだ」
「でもあなたは二ヶ月に一回ぐらいやってたわ」
「でも、ここんところそんなに飲んでない。酔っ払って癒されるぐらいの辛さじゃないんだ。それに、この辛さはある部分で楽しくもある」
「変な人」私は首を回して彼の首に口付けして、そう言った。
彼が笑う。「春ちゃんが酔っ払ってるよ。もうすぐ冬子が出て来るぞ」
私も笑う。「あら、私はもう冬子よ。今日は朝からずっと冬子がだったの。なのにあなたは私を春って紹介したわ」
「そうだったね。僕も少し迷ったんだよ。でも、君を冬子だって紹介するのが何だか勿体なかったんだ」
「もったいない?」
「そう、僕の宝物を簡単に人に見せたりしたくないんだ」
「本当に変な人」
彼はグラスをカラカラと振りながら言う。「僕の宝物。机の引き出しの一番奥に隠してあるいい匂いのする消しゴム。四十八色の色鉛筆」
「あなたの宝物って使うと減っちゃう物ばかりなのね」
「冬子も減っちゃうの?」
「さぁ。でも放って置くと勝手に歳取っちゃうわ。それに沢山使うと飽きちゃうのよ」
「飽きるほど抱いてみたいものだ」
「随分絵を売らなきゃね」
「そうだね。でも、結婚するよりは安くつくかも知れない。結婚した友達が言うには、奥さんって結構高くつくらしいよ」
「そんなものかしらね。良く判らないわ。奥さんだった事も、奥さんになろうと思った事もないもの。それどころか、誰かの恋人であった事もないのよ」
彼が私の衿元から胸に手を入れて言う。「僕の恋人になればいいじゃないか」
その手を服の上から押さえて言う。「そんな事したら儲からないわ。だまされちゃいけないって言ったのはあなたよ」
「でも、誰が見ても僕達は恋人同志に見えてるよ」そう言って私を抱き寄せ、自分の膝の上に乗せる。
「人のことなんて放っておけばいいわ」私は彼の腕に猫のように抱かれてそう言った。彼の手はスカートの裾から中に入り私の内股の辺りを撫でる。
「君が恋人に成るのが嫌なら、愛人にしよう。それならいいかい?」
「愛人って、もっとセクシーじゃなきゃいけないんじゃないの?」
「充分君はセクシーだよ」
私は手を延ばして彼のグラスに残ったブランデーを飲み干す。そして彼の膝の上からのがれて、彼の煙草に火を付ける。そしてそれを大きく吸う。私は彼に口を付けて彼の吐く煙を吸い込む。
彼が尋ねる。「冬子、今夜は幾らだい?」
私はその煙を吐き出して言う。「あなたの全財産よ」
彼は微笑んで言う。「OK じゃあこれだけだ」そう言ってポケットの中からお金を取り出しテーブルに乗せ、そして立ち上がって自分の着ている服を全部脱いだ。
私は彼の煙草を揉み消して言う。「その脱いだ服を貰えるのかしら?それともあなた自身?」
「どっちでも好きな方をどうぞ」
私は彼の足元にひざまづいて彼自身を口付けする。彼はそんな私の頭を撫でる。そして私を抱き起こし、とても激しく口付けした。私は酔っ払った頭でそれを受け入れていた。彼は何度も愛してると言った。その言葉が天井と同じように私の上をぐるぐる回っていた。
次の朝私は自分のベッドじゃないところで目覚めた。それが正人のベッドだと気付くのに少し時間がかかった。彼が私の背中の方で寝ていた。私が振り向くと彼は笑って言う。
「おはよう。目が覚めた?」
「ええ。どうして私ここで寝ているの?」
「君を離したく無かったんだ。それに君を君のベッドまで運ぶには疲れ過ぎてた」
「そんなに頑張ったの?」
「覚えてないの?」私は頷く。
彼は首を振って言う。「ちょっと飲ませ過ぎたかな?」
「きっとね。でも何となくだけどとても充たされたような気がするわ」
「だったら良かったよ。僕の努力は無駄じゃなかったんだ」
「でも昨日買ったのはあなたよ。あなたは充たされたの?」
彼は私の裸の胸に触れながら言う。「全財産をつぎ込んだからね。もう少し楽しむ分ぐらいは残ってるかも知れないけど」
私は振り返って、彼の胸に顔を付けて尋ねる。「あなたは何故そんなに私を愛してるの?」
「そんなの判らないよ。だから愛って言うんじゃないか。」そう言って私を抱きしめた。
私も自分でも判らないところで彼を愛し始めているようだった。
私は彼の腕を擦り抜けて起き上がる。そして彼の被っていた毛布をはぎ取ってそれを自分の体に巻き付ける。
「ちょっとこれ貸してね」
「冬子、寒いよ」彼が叫ぶ。
「ちょっとだけ待ってて」
私はそう言いながら自分の部屋に戻り、急いでバスローブをはおって彼の部屋に毛布を返しに行った。
彼はシーツの上にうつ伏せになって寝ていた。私は毛布を彼にかけて言う。「どうもありがとう」そしてそのままバスルームへ行ってシャワーを浴びた。
随分飲んだ割に、頭は痛くなかった。良かった。小説が書ける。そう思うと私の頬は鏡の中で自然に微笑んでいた。
私のシャワーが終わるのを待っていたように正人がバスルームに入ってきた。彼がシャワーを浴びている隣で私は歯を磨く。
その後お湯を沸かしながら、リビングの片付けをした。
そこには彼と私の洋服が散らばっていて、何だかとても気恥ずかしかった。私は彼の服と、夕べのブランデーの瓶を彼のアトリエに持って行く。そして自分の服をまとめて自分の部屋へ持って行った。
彼が出したお金を私は食卓の上に置いて、夕べ飲んだグラスをキッチンの流しに運び、テーブルを拭く。そして自分の部屋に戻って、まだ濡れたままの髪を一つにまとめ、バスローブを脱ぎ服を着た。
彼がバスルームから出てきたのは、ちょうど紅茶が入った頃だった。
彼は紅茶を入れている私の側に来て、後ろから抱きしめ私の頬にキスをして言う。「冬子。おなかすいたよ」
私は振り向いて彼に軽くキスをして言う。「トーストでいい?」
「ああ」
「ちゃんと洋服を着てらっしゃい。風邪を引くから。そう、昨日の洋服はアトリエに置いたわ。後は自分で片付けなさい」
「はーい」彼はそう言って自分の部屋に戻った。
私は彼の自分の分のパンをトースターに入れ、二人分のカップを持って食卓に座る。そして彼にもらった夕べの分のお金を数える。三万五千円有った。ちょっともらい過ぎだ。私は定価の分だけ自分のポケットに入れ、一万円札を彼のカップの下に敷いた。
トーストの焼き上がる音がした。私は彼に大きな声で尋ねる。「トーストは一枚。それとも二枚?」
彼も大きな声で答える。「二枚食べる」
私は焼き上がったトーストを皿に乗せ、彼のもう一枚だけトースターに入れた。それを食卓に運び、アプリコットジャムを塗って食べる。彼も着替え終わってテーブルに着く。そして言う。「この一万円は何?」
「昨日の多すぎた分よ」
「君は、僕の全財産って言ったんだよ。だからこれも君の分だよ。それに僕のこの体も君のものだ」
「そんなの忘れちゃったわ。だって酔っ払ってたんですもの」
彼は首を振って溜息をついた。そしてその一万円をポケットに入れて言う。「まぁいいか。それで僕は無一文にならなくて済んだ」
私は食べながら思っていた。私のお金が彼の元へ行って、それを彼が私の元へ持ってっくる。そしてそれを持って私がまた彼を買って、それで彼が私を買う。私は全然儲かっていない。どちらかが続けて売らないかぎり儲からないんだ。
私は彼に聞いてみる。「今日は私を買わないの?」
「欲求不満なの?それだったら僕を買ってよ。だって僕はこの一万円しかもう無いんだ」
「そうか。やっぱりそうよね」
「何が?」彼が尋ねる。
私が答える。「どちらかが続けて売らないと儲からないだなって思ったのよ」
彼が声を立てて笑う。「バレちゃった。つまり君の一番初めのお金が行ったり来たりしてるだけなんだよ。それで今でプラスマイナスゼロだ」
私は言う。「まあいいか。昨日御馳走になったし。でも愛人って儲かるんじゃないのかしら?」
彼が答える。「君が僕の愛人だったらね。でも僕も君の愛人でいると同じことになる。君がいつも売り手でいればいいんだよ」
私が尋ねる。「あなた、私を愛人にするぐらいの収入はある?」
「多分ムリだと思うよ。君に幾らかかるか判らないけどね」
「じゃあ、私をお嫁さんにすれば養える?」
「質素に生活すればそのぐらいは大丈夫だと思うけど。でもここに住むのは難しいね。君の分の家賃も僕が払うって言う事だろう?でも僕はそれでも別に構わないよ」私は頷く。
彼が言う。「どうしたの?やっと僕の愛に応えてくれる気になった?」
「違うわ。仕事しなくても暮らせる方法って無いかなって思っただけよ」
「仕事、嫌になったの?」
「そんなんじゃないわ。まぁいいじゃない」
彼は首を振って言う。「僕に恋をした訳じゃ無いんだ」
私はあわてて言う。「ごめんなさい。愛してわよ。いや、愛してると思う。だって昨日までより、随分あなたを近くに感じるもの。ただちょっと考える事があるのよ」
彼が悪戯っぽく笑って言う。「仕事じゃなしに、何かを書きたいんだろう?」
私は驚いて彼を見る。
彼が言う。「その位判るよ。僕だってものを作る仕事だからね。それに君を愛してもいる。君が求めているものくらいちゃんと判るさ。取り敢えず少し仕事を減らして、自分の時間を作ればいい。食事だって全部を外食にすればいいし、君の食べるものぐらいは僕が出してあげる。その分借用書を書いてもらってベッドで精算してもらうよ。それだったら少し仕事を減らしても大丈夫だろう?僕達のシステムを変えなくてもいいし」
「そうじゃないわ。食事の用意なんてちっとも苦痛じゃないのよ。かえって気分転換になっていいの。ただ気持ちがね。そう、気持ちの問題なの。仕事で書いているものと私の書きたいものが余りにも違い過ぎるから」
「冬子。冬子が書けばいいんだよ。君はいつも春と冬子を、上手に使い分けてたじゃないか。僕はもう君を春とは呼ばないけど、でも君はどちらでも有り得るんだ。君の中にどちらもが居るんだから。とにかく書き始めてごらん。書いているうちに春が出てきたら僕がまた冬子を引っ張り出してあげるから」
「お酒をたくさん飲ませて?」
「方法はいろいろ有るよ。でも君を酔わせるって言うのは効果的な方法だった。それに君がとてもセクシーになるって言う特典まで付いていたからね。」
「でも、自分のベッドで誰かが寝てたのよ。あなたはそう言うのが大嫌いだったじゃないの」
「昔はね。でも人は進化するものなんだ。今朝君が僕のベッドで寝ているのを見て、僕はとても嬉しかったよ。君はとてもリラックスしていたし、まるで無防備だった。そう、生まれたての赤んぼうみたいにね。赤んぼうは僕の領域を冒したりしないんだ。僕が守るだけさ」
「あなた良くそんなこと照れないで言えるわね」
「キザかな?」
「多分ね」
「じゃあ気を付けよう」
「そうね。気を付けた方がいいわ。きっとあなたってそうしていろんな女の子を傷つけてきたのよ」
「どうして?」
「多分、あなたが愛している時にとても素直に自分の気持ちを伝えるように、嫌になった時もとても素直に言ってるんだと思うわ。それってとても残酷なことよ。少なくともこの日本ではね。あなたに引かれた女の子達って、あなたのその日本的でないところに引かれて、結局それに傷つけられたんだわ」
「冬子、君はまるで僕の恋愛をずっと見ていたようだ。全くそのとおりだよ」
私は微笑んで言う。「私だってものを書く人間よ。それにあなたを愛し始めてもいる。その位わかるわよ」
「君は大丈夫だろうか?僕は君を傷つけたりしないだろうか?」
「正人君。私にはあなたにだまされないようにって忠告してくれる人が居るの。私はちゃんとその忠告に耳を傾けるわ」
「でも君は本当に僕を愛してくれるのかな?」
私は答える。「多分私のやり方でしかないと思うけど」
「それはいい。僕は僕のやり方で君を愛してる。そして君は君のやり方で僕を愛してくれるんだ」
「そう、取敢えずは今までどおりにね」私がそう言うと彼も笑った。
私は食べ終えた食器の片付けを彼に任せて、自分の部屋に引き上げた。そして春の写真におはようを言う。彼女はいつもより少し嬉しそうに笑っていた。私も嬉しそうな顔で彼女に笑いかけた。
しばらくすると扉の閉まる音がして、鍵のかかるガチャガチャという音がした。多分正人が散歩に出かけたのだ。私は一人でワープロに向かいながら、さっき正人に言った事について考えていた。私は本当に彼を愛しているのだろうか?酔った頭で、彼の愛してるという言葉を聞いて、そんな勘違いをしただけなのじゃないだろうか?しかし彼は決して私をだましているわけではない。本当に今はそう思っているのだ。ただそれがいつまで続くかは判らないと言う事なのだ。
私は書きたいものがあるのに書きだせないでいた。始めの一行がどうしてもでてこないのだ。私は諦めて仕事にかかることにした。
ちょうどお昼に彼が戻ってきた。私はリビングに出て言う。
「随分長い散歩だったのね」
彼が大きな紙袋をテーブルに置いて言う。「ちょっと遠くまで歩いたからね。それで新しいお店を見つけて買い物もしたんだ」そう言って紙袋の中の物をテーブルに拡げる。フルーツの缶詰にオイルサーディンの缶詰。それにクラッカーの箱にポテトチップス。そのどれもが輸入品だった。
「とっても安かったんだ。君に返してもらった一万円があったからね」そう言いながらまだ出てきた。いちごのジャムにウオッカ、それに見たこともないラベルのビールが三本。それにスパゲッティーの大きな袋もあった。
私はあきれて言う。「あなたって本当に力持ちね。良くこんなに重いものばかり買ってきたわ」
彼が笑って言う。「そうなんだよ。初めはカートで買ったから気がつかなかったんだけど、レジでお金を払った後、どうしようかと思ったよ」
「とにかくお昼はこのスパゲッティーにしましょうか」
「それがいい。じゃあ僕はこれを片付けるよ」そう言ってキッチンの戸棚にそれを片付けた。
私は鍋にお湯を沸かしながら言う。「春の絵は描けそう?」
「ああ。今の季節に外を歩くと春がいっぱい落ちている。それを拾い集めて絵にする。君は書けそうかい?」
「だめよ。最初の一行がどうしても出てこないの。だからやっぱり仕事をしちゃった」
「焦らないでいいよ。きっと突然天から最初の一行が降ってくるさ」
「だといいけどね」
「そんなものさ。本当に伝えたいことはなかなか言葉にならないんだ」
「でもあなたはいつもそれを言葉にするわ。あなたが小説家なら良かったのに」
彼が肩をすくめて言う。「残念ながら、僕の言葉は人を打たない。たまに女の子が僕を好きになってくれるぐらいさ。それだってとても限られている」
「巧く行かないわね」
彼は何も言わずに買ってきたばかりのビールを開けた。そしてグラスに注ぎ分けて私にくれる。
「私はまだ仕事中よ」
「こんなものぐらいで酔ったりしないよ。それにもし酔ってもスパゲッティーを食べ終わる頃には覚めてるさ」
良く洗った卵を二つ大きな鍋にいれ、たっぷりの量のお湯を沸かす。お湯が沸く前に、玉葱とベーコンを刻む。先にベーコンを炒め、その油で玉葱が透き通るまで炒める。トマトの水煮の缶詰をそこに全部空け、ブイヨンブロックを細かく砕いて入れる。それにスライスマッシュルームの水煮を全部入れる。ローリエの葉を二枚と、オレガノ、セージ、乾燥したバジル、それにオールスパイスと胡椒を振り入れ、煮詰める。その間に沸いたお湯に卵と一緒にスパゲッティーを入れてかき混ぜ、もう一度沸き立ったところでタイマーをセットする。スパゲッティーが茹で上がる迄の間、私はビールを飲む。途中で両方の鍋を何度かかき混ぜる。
正人がお皿の用意をする。そして冷蔵庫から出したレタスを水に晒してから良くその水を切り、手でくしゃっとむしるようにして皿の上に乗せた。それとドレッシングを食卓に持って行く。
私はタイマーの残り時間を確認してトマトソースの味を見る。ベーコンとブイヨンの塩分でほとんど塩を足す必要はなかった。火を止める少し前に醤油を少しだけ入れてすぐに火を止める。タイマーの切れる音がしてスパゲッティーが茹で上がった。それを水を一杯に出した流しのざるに空ける。そしてオリーブオイルを振りまぶして正人の用意した皿に盛り付ける。一緒に茹で上がった卵をむいてスライスし、キッチンを出て、サラダの上に乗せる。そしてキッチンに戻ってトマトソースをスパゲッティーに掛け、彼に言う。「出来たわよ」
彼がそれを取りに来て食卓に運ぶ。その間に私は鍋だけ洗ってしまう。そして食後のお茶のためにお湯を沸かした。
キッチンを出ると正人がサラダにドレッシングをかけているところだった。
「おいしそうだよ」彼が言う。
「多分ね」そう言って私も食卓につく。
彼がスパゲッティーをフォークに巻き取って口にいれる。
「おいしい?」私が尋ねると彼が頷く。そして私もそれを食べる。スパゲッティーの茹で具合もアルデンテでちょうど良く、麺の太さとそのソースは良く合った。彼がフォークでレタスを突き刺しながら言う。「君は料理のセンスもいいね」
「後、他にどんなセンスがいいの?」
彼が笑って言う。「ベッドでのセンスも抜群だ」
私は口の中のものが咽に詰まりそうになった。それをやっと飲み下して言う。「あなたって本当に変な人」彼が笑ってみせた。そしてしばらく黙って食べてから思い出したように目を上げて言う。「定価が安すぎたかも知れないよ」
私は首を振ってそれに対して何も言わなかった。
食べ終えた食器を彼が片付ける。その間に私は紅茶を入れる。
「あなたはコーヒーにする?」
彼が頷いて言った。「コーヒーは僕が入れるよ」
私は頷いて紅茶のポットを持ってキッチンを出た。
食卓の上で紅茶をカップに注ぎ、それを持ってソファーに腰掛ける。窓から見える木々の色は、真冬の時とは少し変わってきたような気がした。
私は随分昔のことを思い出していた。トオル達と出逢う前のことだ。その頃イタリア人の男と何度か寝た事があった。彼はその度に私のセックスを誉めてくれた。その頃の私はいつも変な奴だと思っていた。そして誉められる度に、自分の存在を馬鹿にされているような気がしたものだった。しかしそれは違ったのだろう。日本の男がそんな事を口にする時は、たいてい性的欲求を抱えてそれを処理したいと思っている時だけだが、彼らにとってはある意味で女性を尊重し、最上級の誉め言葉としてそれを口にするのだ。正人を見ていてそれが何となく判った。私は自分を売ることの後ろめたさで、それが判らなかったのかも知れない。いや、多分まだ若すぎたのだ。
今朝私は正人に嘘をついた。夕べのことを覚えていないって言った事だ。私はちゃんと覚えていた。彼がどんなふうに私を抱いたか。そしてそれは私が今まで体験したどんな性行為とも違っていた事をだ。
昔私を買った男達は、自分の欲求を満足させるためだけに私の体を利用した。私はお金をもらうことで彼らのどんな要求も受け入れた。何度も愛してると言いながら抱いた男もいた。何も言わずにただ私の部分だけを利用した男もだ。しかし、何れにしてもそれは私である必要の無い行為だった。ならば、トオル達との行為はなんだったんだろう?
多分あれは、自分たちの青春を確かめるための儀式のようなものだった。静かで、穏やかな、それでいて切ないような胸の震えを伴った儀式だ。彼らはその儀式を執り行う一員として私を必要としていた。彼らとの性行為は私である必要のあるものだったのだ。しかし、それはやはり儀式でしかなかった。
正人とのそれはそれらのどの行為とも全く違ったものだった。正人は、自分の欲求のためだけに私を抱いてはいなかった。それが私には驚きだった。彼は私と寝ることを楽しもうとしていた。その楽しみを私に教えようとも。きっと本当のセックスとは二人で楽しむものなのだろう。私はその楽しみを今まで誰とも共有したことがなかったのだ。彼は私とそれを共有したがっていた。それは私である必要のある行為だ。そして私もそれを望みつつある。彼が私に指し示したものは、私の全く見たことのない世界だったのだ。私にとって相手が彼である必要があるのだろうか。私は判らなくなって一人で首を振った。
正人が後片付けを終えてコーヒーを持ってキッチンを出てきた。
「片付けありがとう」
彼が首を振る。そして私の隣に腰を下ろしてコーヒーを飲んだ。その横顔を見る。そんなにいい男でも無く、たくましくもない。一重のまぶたに、少しイエローがかった薄い色の瞳。少し薄い鼻筋が真っ直ぐ通っている。見様によってはいい男なのかも知れない。しかしそれまで私はそんなふうに思った事がなかった。背もそんなに高くなく、筋肉質の体ではない。しかし力はあるらしい。私が思うには、彼の力は筋肉によってもたらされるものでなく、バネによってもたらされるものなのだろう。
「冬子。どうしたの?」彼が不思議そうに私を見ていた。「そんなに見つめられると照れちゃうよ」
私は大きく首を振って言う。「ご免なさい。ちょっと考え事をしていたのよ」
「なんだ、僕に見とれてたわけじゃないんだ」
私は少し慌てた調子で言う。「あっ、違うの。あなたって見ようによってはいい男なのかなって考えてたのよ」
「それはどうもありがとう。でも五年も一緒に暮らしてて、今まで君は僕がどんな顔してるかも知らなかったんだ」私は曖昧に頷く。
「やっぱりね。君は本当に正直だ」
「ごめんなさい」私は小さく言った。
彼が声を立てて笑う。「冬子が謝る事じゃないよ。とにかく僕を見てみる気になったことだけでも喜ばしいことかも知れない」私は答えを笑ってごまかした。
飲み終わったカップをもってキッチンへ行く。それを簡単に洗って片付ける。
彼の前を横切り自分の部屋へ行こうとしたところで、彼が呼び止めた。
「冬子」
私は立ち止まる。「何?」
彼はコーヒーカップをテーブルの上にコトッという音を立てて置くと、立ち上がった。そして私の両肩に手を置いて言う。「ほら、ちゃんと前から僕の顔を見ておいて」
私は手で彼の顔に触れてみる。そして言った。「ちょっと変わってるけど、見ようによってはハンサムかも知れないわ」彼が笑う。「見ようによってはね」私は微笑んで頷く。
「仕事をするわ」そう言って私は自分の部屋に引き上げた。