春 「冬子」 X
あの雪の日から一ヶ月。私達はどちらかが相手を買いに行かないかぎり、それまでと全く変わらない生活を送っていた。そしてその商談が成立した時だけは、少し恋人同志らしい関係に変化していた。私は相変わらず彼を愛しているかどうかを掴みかねてはいたが、彼との関係の心地よさに、それはたいして大きな問題ではないような気がし始めていた。そして私が愛というものをちゃんと知らない為にそう思うのだと言う事にも気づきかけていた。
「冬子!」
散歩から帰ってきたばかりの彼がリビングから呼ぶ。私はワープロのスイッチを入れたまま扉から顔を出して答える。「なぁに?」
「君は今日忙しいのかい?」
「ええ、とってもね」
「何時頃終われる?」
「四時までに届けないといけないのよ。あと二〜三時間で出来ると思うからギリギリの線よ」
「四時に届けたら後はもういいの?」
「ええ、六時までには帰って来れるわ」
「じゃあ戻ってきたらちょっと声を掛けてよ」
「判ったわ」そう言って私はまたワープロに向かった。そして時間どおりに仕事を届けて五時半には戻ってきた。
「正人君。帰ったわよ」
彼がアトリエから首を出して言う。「ちょっと出かけようよ」
「どこへ行くの?」
「散歩だよ」
「どうして私が一緒なの?」
「まぁいいじゃないか」そう言って彼はブルゾンジャンパーを持って出てきた。
私は大きな溜息をついて言う。「何かおいしいものを奢ってよね」
「判ったよ。だから僕について来て」
私はバッグを自分の部屋に置いて財布と部屋の鍵だけをポケットに入れて彼の後を追った。彼がジャンパーを着て玄関で待っていた。私が鍵を掛ける。
「いいものを見せたいんだ。ちょっと日が暮れちゃったけど、でも夜も綺麗だと思うよ」
私は首を傾げながら彼に続く。彼は私の手を引きながらどんどん歩く。結局私達は三〜四十分ほど歩いた。
そこには満開の桜の木があった。
「どう?綺麗だろう?他の木はまだ三分から五分咲きなのに、この木だけは満開なんだ」
私は街頭に照らされた満開の桜の下でそれを見上げていた。
「綺麗。本当に満開ね。あなたってすごい。宝物を見つけるのが上手なのね」
「早起きして散歩をする成果だよ。冬子もたまには早起きして散歩すれば?」
「こんなものを見つけられるんだったら、それもいいかも知れないわね」
私はずっと上を向いたまま話していた。
「桜って本当に綺麗だわ。一つづつはとても柔らかくて弱々しい花なのに、こうして咲くと物凄い迫力。良く研ぎ澄まされた刃物のような鋭さもあるし、少しの風にでも一斉に舞う潔さもある。きっと自分の命の短さをちゃんと自覚しているのね。散るために咲くのよ」
「そうだよ。そして実を付けるんだ」私は頷いた。
彼が言う。「ついて来て良かった?」
「ええ、これで美味しいものにあり付けたらもっと素敵よね」
「判ったよ。随分おなかがすいてるんだね。でも、もう少し我慢できる?あと一つ見せたいものがあるんだ」
「それって遠くまで歩かなきゃいけないの?」
「もう少しだけだよ」
「判ったわ」私はそう言って彼の腕に手を回した。
それから彼について十分程歩いた。大きな通りを離れて暗い道をくねくねと曲がりながら歩く。
「なんだか、探検してるみたいだわ」
「そうだよ。毎日が探検なんだ。そして僕は今日二つの宝物を見つけた。ほら、見てごらん」
最後の角を彼が私の体を押すようにして曲がらせた。
目の前にまっ黄色の壁があった。彼に誘われてそれに向かって歩く。それは河原の土手一面に咲いた菜の花だった。
彼が言う。「線路じゃないけど、でも綺麗だろう?」
「本当ね」
その菜の花は側の家の門灯に照らされていた。そして三日月ではあったがちゃんと月も出ていた。
「正人。あなたって本当に素敵よ」私は彼を振り返って言った。彼が本当に嬉しそうに微笑んだ。
私が言う。「ねえ、あの門の前に立ったら私達の影が映るんじゃないかしら?」
「行ってみよう」彼が言って私の手を引いた。そして二人で並んで、よその家の門の前に立つ。
「ウワー、本当に映ったわ」
彼が手を振る。すると彼の影も手を振った。私がピョンピョン跳びはねる。すると影もちゃんと跳びはねた。
「生きてるわ」私が言う。
「確かに」彼が答えた。
私達はしばらくそこで菜の花を見た。少し青い匂いを胸一杯に吸い込んで。
桜は次々と咲き、マンションの窓から見える風景が、私の部屋にある春の絵と同じ季節が一週間ほど続いた。そしてある晩の春の嵐でその季節は終わった。
正人は雑誌の為のイラストと展覧会の為の春の絵を平行して描いている様だった。私は彼の仕事に干渉はしなかった。私も結構仕事があって、自分の小説を書けないでいた。しかしそれは何時か書けると言う確信の様な物を掴みかけていた。正人が私に対して愛していると言い続けてくれる事が私に自信を与えてくれていたのかも知れない。
彼はあれから二度優介さんの店に私を連れて行った。私を冬子と呼ぶのを見てけげんそうな顔をする優介さんに、私を春子の双子の妹だと言って紹介した。それを聞いて納得しそうになった優介さんに彼は慌てて、春は私のペンネームで本名は冬子だと紹介し直した。そして私は改めて彼と握手をした。
「冬子です。よろしく」
彼はとても暖かい笑顔をくれ、力強くその手を握り返してくれた。
「春ちゃんの方がよく似合うよ。冬子って何だかとても寂しそうな名前なのに、君はまるで春の日差しのように暖かな感じがする」
「どうもありがとう。でも彼は私を冬子って呼びたがるの。私はどっちでも同じなんだけどね」そう言って正人を見る。
優介さんが言う。「こいつは昔から変わり者なんだ。でも、物の本質を見抜く目だけは鋭かった。僕が気付かないような視点で物を捕らえて、それを表現してた。それで僕は絵を描くのを諦めたんだよ。こいつには勝てないからな」そう言って笑った。
正人も笑って言う。「随分誉めてくれたね。冬子の事がよほど気に入ったみたいだ。でも、冬子に惚れると高くつくよ。ねぇ冬子」
「さぁ?でも彼の方があなたよりきっとお金持ちだわ」
「確かに」そう言って三人で笑った。
結局優介さんは私のことを春ちゃんと呼ぶことにしたらしい。それはきっと正人に敬意を表してだったのだろう。それでまだ私のことを冬子と呼ぶのは正人一人だけだった。
春が駆け足で行ってしまい、梅雨が始まろうとしていた。
私はいつものように少女雑誌の為の小説を書いていた。正人は朝から出かけて居ない。一人で昼食を食べ、仕事をしていた。ほとんど一区切り付いて、お茶を入れようとしている時に私の電話が鳴った。
「遠藤です」
「冬子」
「正人?どうしたの?」
「ちょっと頼みたい事があるんだけど」
「何?」
「ちょっと時間貰えるかな?」
「どう言う事?」
「今日渡さなきゃいけない約束を忘れて出てきちゃったんだ。それで、それを相手に届けてもらいたいんだ」
「どうして私が届けなきゃいけないの?」
「どうしても今日中に渡さなきゃいけないんだ。相手に連絡を取ったら、六時に駅前の喫茶店まで取りに来てくれるって言うから、そこまで冬子に持って行ってもらいたいんだ」
「仕方ないわね。どれを持って行くの?」
「アトリエのテーブルの上に春って書いた茶色い封筒があるからそれを持って行って」
「相手は判るの?」
「じゃあ、冬子がピンクのセーターを着て行って。相手にもう一度電話してそう言っておくから。それで見えるようにして封筒を持っていたら判るだろう?」
「多分ね。仕方ない人ね。今度だけよ」
「ゴメンゴメン。ちゃんと判ってるよ。二千円でどうだい?」
「そんなに時間かからないんでしょう?」
「ああ、渡してすぐ帰ったらいい。もし奢ってくれそうだったら御馳走になっても構わないけど」
「OK 二千円で手を打つわ。ところで相手の名前は?相手を確認しないで渡すと大変でしょう?」
「え〜っと、確か、長谷川だったと思うよ」
「長谷川さんね。判ったわ」
「じゃあ。多分僕は少し遅くなるから」彼はそう言って電話を切った。
私はキッチンへ行ってお茶を入れる。時間はまだあった。ゆっくりお茶を飲んで、一応簡単に化粧をした。そして彼の言ったピンクのセーターに着替える。そして彼のアトリエに行って茶色の封筒を探す。それはすぐに判るところに置いてあった。なぜこんなものを忘れたんだろう。出掛けに気付くだろうに。きっと随分急いでいたのだろうと思った。その封筒はちゃんと封をしてあって、中に何が入っているのか判らなかった。しかし春と書いてあるから展覧会の為の何かだろう。
私は少し早めにマンションを出て、本屋さんで料理の本を少し立ち読みした。そして六時ちょうどに言われた喫茶店に入った。
私は相手が全く判らないので入り口で封筒を抱えて辺りを見回す。店のテーブルは三つが使われていた。一つはカップルで、一つは学生のような女の子達だった。そしてもう一つは背広を着た男性がこちらに背を向けて座っていた。
私は相手がまだ来ていないのかと思って店を出ようと思った。すると私に背を向けて座っていた背広の男性が立ち上がって振り向いた。
私は驚いて立ちすくむ。その男性が私のそばに歩いて来て言う。
「冬子」
私は気力を振り絞って言う。「あなたが、長谷川さんなの?」
確かに彼は長谷川だった。
「そうだよ。忘れた?こっちへ来て座って」
私は言われるままに彼の居た席に座る。ウエイトレスがやってきて私の前にお水を置いて注文を待つ。「コーヒーにする?それともミルクティーがいいかな?」
「ミルクティーを」私が言うのを聞いてウエイトレスが立ち去った。
彼が私の持っている封筒を指指して言う。「それをもらえばいいのかな?」
私は頷いてそれを差し出す。
「トオル。どうして?」私はやっと聞けた。
彼が答える。「村上君が電話をくれたんだよ。僕の書いた物を読んだって言ってね」
「なぜ?なぜ彼があなたに電話したのかしら?」
トオルが首を振って言う。「さぁ。判らないよ。でも冬子に会えるって彼が言ったからここに来たんだ」
私は少しづつ気持ちが落着き始めていた。しかし何を言えばいいのか、何を尋ねればいいのか判らなかった。それでしばらく黙っていた。
紅茶が運ばれてきて、それにミルクと砂糖を入れてかき回す。そしてそっと持ち上げてそれを飲む。
カップの向こうで大人の顔をしたトオルが微笑んでいた。私もカップを置いて微笑み返す。
トオルが言う。「これ、開けてみてもいいかな?」
「さぁ?多分いいんじゃない?」
トオルは封をしてあったセロハンテープを剥がし、中のものを取り出す。私にはそれの裏側が見えていた。白いケント紙だ。トオルの表情が複雑に変化した。そして今にも涙がこぼれるのではないかと思えた。しかしさすがに彼はもう大人だった。一瞬のうちにそれを追い払って初めの顔に戻り、微笑んでみせた。
私は首を傾げる。そして尋ねた。「何が書いてあるの?」
彼が封筒ごと私にくれた。私はその絵を取りだしてみる。春だった。娘の春だ。正人が私の部屋の写真を見て描いたものだ。それは写真よりももっと生き生きと描かれていた。
「彼女が五歳の時よ。この後すぐに事故にあって死んだの」
「間違いなく僕の子供だ」トオルが言った。
私は絵を彼に返して言う。「いいえ。私の娘よ」
彼が首を振って言う。「冬子、どうしてあの時黙って行ってしまったんだ?」
「聞きたいの?」
「いや。答えなくていいよ。判ってる。でも、でも春が、彼女が死んだ後にでも連絡をくれれば、僕達は何か役に立って上げられたと思うんだ」
「あなた達には何もする事なんて出来なかったわ。たとえどんな事をしてもらっても、あの悲しみは薄らぎはしなかったもの。ただ、時間だけが必要だったのよ」
彼は首を振って言う。「村上君は、彼は君を愛してくれるのかい?」
「ええ。随分彼に支えられているわ」
「僕の書いた物で彼は傷つきはしなかっただろうか?」
「随分傷ついたわ。でも仕方ないことよ。それは他の誰のせいでもなく、私のせいですもの。そして彼はその私を愛したんですもの」
「冬子は彼を愛しているのかい?」
「判らないのよ。ずっとそれが判らない。私には愛するとかって言う事自体が判らないのかも知れないわ。最近そう思うの」
「冬子はこうして村上君にだまされて僕と会ったことをどう思うの?」
「そうね。後で正人のことをとっちめてやろうとは思っているけど。でもこれは彼なりの優しさだわ。そして彼はきっと賭をしたんだと思う。彼がどっちに賭けたかは判らないけどね」
「どう言う事だろう?」
「自分で考えるといいわ。だってトオル、あなたはもうスーツも着ているしネクタイだって締めてる。ちゃんとした大人だわ」
トオルが言う。「冬子は変わらない。あの時のままだ」
「もう十三年近く経っているのよ。れっきとしたオバサンだわ」彼はまた首を振る。
「ワタナベ君は元気?」
「ああ、もう半年ぐらい会っていないけどね。でも先週電話で話した」
「私と会うって言った」
「いや、昨日突然村上君に電話でここに来るようにって言われたから。連絡は取れていない」
「連絡しようとは思わなかったの?」
「冬子は鋭いところを突くね。思わなかったよ」
「やっぱりそうね。彼には内緒にしておくといいわ。きっと心が揺れて、苦しくなるに決まっているもの。それに私があなたと会うのも今日だけよ。あなたにもちゃんと家庭があって、守るべき者達が居るんだわ。後十年も経てばお友達として話せるかも知れないけど、今はまだお互いに心が揺れる。その揺れを楽しんでたら何もかも失くしてしまいそうよ」
私は彼の左の薬指の指輪を見ながらそう言った。
「相変わらず冬子は大人だね」
「愛を知らないからよ」
「冬子、それは違うよ。あの時には判らなかったけど、今の僕には判る」
「何が?何が判るって言うの?」
「冬子は冬子なりに愛しているんだよ。あの時の僕達も。そして村上君もね」
「どうしてそう思うの?あなたは正人のことも、今の私のことも知らないのに」
「それは君が村上君の優しさを、ちゃんと判っているからだよ」
「それが愛なの?」
「そうさ。それが愛なんだ。冬子があれからどんな人生を歩いてきたのかは知らないが、でも僕には判る。冬子は愛の中にいて、愛を探していたんだよ。僕には君がいなくなってそれがよく判った。僕だってワタナベだって君を愛していたんだ。村上君が見つけた僕のあの文は、冬子へのラブレターだったんだよ。随分遅すぎたかも知れないけど。ワタナベもあれを読んでそう言ってくれた。これは僕達の青春と、その青春その物であった冬子へのラブレターだってね」
「そう。彼がそう言ったのね」
トオルが頷いた。そして言う。「僕達も君のラブレターを持ってるよ。きっと何時かそれが届くと思っている。ずっと待って居るんだ。君の青春へ宛てたラブレターが届くのをね」
「判った。きっと何時か書くわ。そのためにも、今のあなたのことは何も聞かない。そして今の私のことも話さない。私、帰るわ」そう言って私は席を立つ。
彼も立ち上がって言う。「送らせてくれないか?」
「いいえ、一人で帰る。私は私の足で歩けるもの」
彼が私に手を差し出す。戸惑う私に彼が言った。「冬子の手に触れたいんだ」
私がその手を取る。トオルがそれを握り締めて言う。「確かにこれは冬子の手だ。何度この手を求めただろう。判らないぐらい何度もだ。暖かい。そして君は生きている」
私は頷いて彼の手から自分の手を取り戻す。そしてその手を振って言う。
「ごちそうさま。そして・・・さようなら」
彼も言う。「さようなら。冬子」
私は一人でマンションに向かって歩く。トオルの言った言葉が頭の中をグルグルと回っていた。私は愛の中にいて愛を探していたのか?私は彼らを愛していたのか?そして正人をも愛しているのか?自分にそう問い掛けながら歩いていた。
マンションの部屋に戻ると玄関の鍵が開いていた。正人は遅くなると言っていたので、私は一瞬泥棒かと思って緊張し、そっとドアを押し開ける。そこには脱ぎ散らかせた女性のハイヒールがあった。そして正人のスニーカーも。
私には訳が判らなかった。とにかくその脱ぎ散らかされた靴をちゃんと揃え、自分の靴を靴箱にしまって部屋に入る。リビングの灯りはスタンドだけが点いていた。私はしばらくそのソファーに座ってどう言う事なのか考える。彼のアトリエからは女性が泣きながら彼を罵ってる声が聞こえていた。そしてそれを慰める様な彼の低い声も。私はよく判らないので考えることを止めにして、そっと音を立てないように自分の部屋に入る。そして自分のベッドに腰掛けてトオルの言ったことについて考える。
私にとって、愛とはいったい何なのだろう?何年も会っていないトオルに判って、なぜ私に判らないのだろう?私は今まで愛に何を求めていたのだろう?そしてトオル達や、正人の愛は?
やっぱり判らなかった。隣の部屋から聞こえる声に邪魔されて私の考えは全く出口を失っていた。それで私は考えることを止めた。
暫くして隣から聞こえる女性の罵る声が止み、沈黙の後それはあえぎ声に変わった。私の頭はまた混乱し始めた。そしてその声からのがれるようにリビングに出る。しかしその声はリビングにも聞こえてきた。私はそのまま部屋を出ようかと思った。その時突然正人に対して腹が立ってきた。女性を抱くのなら、アトリエではなく自分の部屋に入るべきなのだ。そうすれば声は外に聞こえない。彼は私に聞かせるためにアトリエで女を抱いているのだろうか。とても腹立たしかった。そして物が良く考えられなくなった私の中で抗議するべきだという声がした。
私はソファーを立ち上がり、大きく深呼吸してから彼のアトリエの扉の前に立ちノックした。突然のノックに驚いたように女性の声は止んだ。
「はい」正人の静かな声が答えた。
「春です」私はそう言った。
「ちょっと待って」彼がそう答える。
扉の向こうで彼のジーンズのベルトの音がカチャッとした。そして、それに足を通すシューッという音がして、次ぎにジッパーを上げる音がした。
私は自分の頭から音もなく血が引いていくのを感じた。しかしその時私はドアの横の壁に背中を預けることによってでも自分の足で立ち続けることを望んでいた。
アトリエのドアが半分だけ開いた。上半身裸の彼がそこにいた。
「冬子。戻ってたのか」
私は精一杯の力を振り絞って自分の足だけで立ち、微笑んで見せる。
「村上さん。どう言う事なのか説明していただけるかしら?これって契約違反よね。それとあなたに頼まれた仕事に対しての説明が欲しいわ」
「判ってる。ちょっと待て貰えるかな」
「いつご説明いただけるのかしら?今の行為が終わってから?もし続けられるんだったらあなたのプライベートルームでお願いするわ。アトリエだと私の部屋にも、このリビングにもまる聞こえなのよ」
「ごめん。悪かった」
その時彼のシャツを羽織っただけの女性が、彼とドアの隙間から私の前に一万円札を突き出して言った。「あなた、いい歳をしてるんだから判るでしょう?聞きたくなければこれで外に出ててちょうだい」
正人が慌ててそれをむしり取り、彼女に対して怒鳴り付ける。「ユミコ、馬鹿なことをするな!」
そして私に向き直って言った。「必ずちゃんと説明するから」
私は微笑んで頷く。
その時ユミコと呼ばれた彼女が側にあった灰皿を掴んで月と菜の花の絵に投げつけた。「何が春よ!」
それはガシャンという音を立てて割れた。私はその瞬間、自分の感情を自分の頭の中で切り捨てていた。
私は、丁度その光景をドアと正人の隙間から見ていた。まるでスローモーションのように、ゆっくりと、そして鮮明に。灰皿が無重力の中のように飛び、月と菜の花がゆっくりと崩れ落ちた。
「何をするんだ!」
正人がそう言って彼女に飛び掛かろうとする。私の手はその瞬間の正人の手首を捕らえていた。
「構わないのよ。あれは私の中に戻っただけなんだから。それよりガラスが危ないわ。彼女が怪我をしてしまう。あなた、片付けてあげて」私はそう言って彼の手を放した。
彼は途方に暮れたような顔でつぶやいた。「冬子」
私は大きく首を振る。そして自分でも驚く程軽い足取りで彼の前を離れた。
「冬子!」私の後ろ姿に彼が呼び掛ける。
私はリビングの灯を点け、振り向いて、言う。「私は遠藤春。冬子なんて言う人じゃないわ」そして自分の部屋に戻った。
その後しばらく、となりのアトリエからガラスを片付ける音が聞こえていた。
私は自分の部屋に戻って立ち尽くした。自分の感情を切り捨て、ただの物体として立ち尽くす。姿見に自分を映してみる。トオル達が知っていた冬子より、十三歳年上の私がそこにいた。私はその鏡の中の女に微笑んでみせる。するとその女も無器用に微笑んだ。
取敢えず私は荷物をまとめる事にした。ここに居るべきではない。ここは私の場所じゃない。そう思ったからだ。
引っ越して来た時から荷物は何も増えていない。ベッドの上の布団を畳み、布団袋にいれる。そして引越の時に使ったダンボールを組み立ててベッドの上に置き、それに洋服を入れた。後、細々したものはスーツケースに詰める。そして一番上に春の写真を置いた。
簡単なものだ。後はワープロの電源を抜き、資料のために集めた本の上に重ねて置く。それだけだった。軽トラック一杯にもならないだろう。その間中となりで何か言い合う声がしていた。私はほとんどあきれていた。
片付け終わった部屋で、ベッドの端に腰掛けて、正人の描いた春の絵を見つめていた。もしかしたら今日私は、反対の立場に立っていたかも知れなかったのだ。
トオルと会って、彼に送ってもらったら彼を部屋に招き入れかも知れない。もし、彼が娘の死を嘆き悲しんだら、私はどうして彼を慰めただろうか?彼が青春の思い出の中に入り込もうとしたら?私にトオルを拒めただろうか?すべて仮定のことだ。しかし、その状況の中で今の自分を保つ自信がなかったから、私はこうして一人で戻ったのだ。もし、正人が今の私と同じ立場なら、彼はどうしただろう?何も判らなかった。
感情を切り離した私の頭の中では、今起こっていることがすべて他人事だった。鏡に映る私の顔は笑っていた。人生なんてこんなものよ。そんなふうに言っているようだった。誰もが私の上を通り過ぎて行く。今に始まったことじゃない。ずっと昔からそうだった。血の気の引いた顔でじっと立っていたさっきの自分がとても滑稽だった。
「でも、とっても久しぶりだったんだもの、しかたないじゃない」照れ隠しにそう鏡の中の自分に言うと、鏡の中の私がまた笑った。
その笑顔の私に尋ねてみる。「これからどうする?」
鏡の中の私が答える。「今夜はどこかのホテルへでも泊まればいいわ。明日、アパートを見つけてから荷物と取りに来ましょう。仕事だって二〜三日は空けられるし、ちょうどタイミングも良かったじゃない」
私は鏡に向かって頷いた。すると鏡の中の女も頷いてみせた。
馬鹿げたことだ。しかし私はそうすることで自分の崩壊を食い止めていた。
隣の声は段々激しさを増していた。そしてドアの開く音がして正人の声が聞き取れた。
「出て行け!もう俺はお前を愛せないんだ。お前は俺の大切なものを傷つけた。俺はお前のその気の強さや勝手さを愛した事もあったけど、今はもう愛せない。いとおしく思えないんだ。お前が傷つけた人は今の俺にとって一番大切な人なんだ。そしてお前の壊したものは彼女の宝物だったんだ。そんなお前を愛せると思うか?出て行ってくれ。そしてもう二度とここに来ないでくれ」
ドアの閉まる大きな音がした。ユミコと呼ばれた彼女がアトリエのドアを叩いて泣き叫んでいた。
「正人。あなたが私を愛してるって言ったのよ。なぜ愛せないなんて言うの?あんなに愛し合ってたじゃない。そしてこんなに私はあなたを愛しているのに。どうして?どうしてなの?」
まるでテレビや映画のワンシーンだ。ただ私はそれを座って見ている観客だ。感情を切り捨て、怒りも悔しさも、悲しみさえない私が、それを見ている。彼女の激しさや、ストレートさが羨ましかった。あんなふうに他人にぶつかっていけるなんて、なんて素敵なことだろう。私には思い付きもしない行動だった。正直言って、私は驚いていた。きっと彼女は、とても愛されて育ったのだろう。自分で守らなくても、誰かが守り育ててくれたのだ。それに比べて私の姑息さと言ったら・・・。情けなかった。こんなふうに自分の頭から感情を切り離してしまうことで、自分の心を守り続けて来た。鏡の中の自分と話し、二つに分かれた自分同志でお互いの傷を舐めあった。そして、愛も、自分も見失い、とうとう傷つくことすらできなくなっていた。
あんなにストレートにぶつかられたら、きっと、誰でも受け入れてしまうだろうと思った。しかし正人は扉を開けなかった。
「なんて冷たい男なんだ」私はそう思っていた。
しばらくして彼女が出て行く音がした。
私は上着とバッグを持って急いで彼女を追った。
彼女はエレベーターに乗っていた。私はそれを階段で追い掛けた。私が一階に着いた時彼女はもうマンションの入り口を出ていた。私は走って追い掛ける。すぐに彼女に追い付けた。
「ユミコさん」私がそう呼び掛けると、彼女は涙でくしゃくしゃになった顔で振り向く。私にはそんな彼女がとてもいとおしく感じられた。
バッグからハンカチを出して彼女の涙を拭ってやる。彼女は訳が判らないのと、あまりの興奮で疲れたのか、何も言わずに私にされるままになっていた。
「ねぇ、お茶でも飲みましょうよ」私が誘った。彼女は何も答えない。
「そのまま電車に乗ったら危ないわよ。行きましょう」そう言って私は強引に彼女の手を引いて、夜遅く迄開いている近くのファミリーレストランに入った。
彼女を座らせて、自分もその前に座って言う。「少し落ち着いた?」
彼女が頷く。そして言った。「何故?」
私は首を傾げて微笑む。「判らないわ。でも何だかあなたが心配だったのよ」
彼女は自分のバッグを握り締めて言った。「あなたは彼に愛されてるわ。それで私を馬鹿にしようと思って誘ったんでしょう?」
私が答える。「さぁ?どうかしらね。ところであなたおなかすいたでしょう。あんなに泣いたら結構おなかがすくものよ。ピザでも食べましょうか?」
彼女が頷いたのを見て、私はウエイターを呼び、ピザと紅茶とコーヒーを頼んだ。
「コーヒーで良かったわよね?」彼女はまた頷いた。私は何故かとても煙草が吸いたくなって、入り口の自動販売機で買った。レジでマッチを貰い、それを持って席に戻る。彼女は少し落ち着きを取り戻した様子で、窓の外を見ていた。
私は煙草の封を切ってそれに火を付ける。彼女も自分のバッグから煙草を出して火を付けた。そして何かの拍子に目が合い、一瞬の緊張が有って、その後彼女が笑った。私も笑い返す。
彼女が言う。「春さんって言うんですよね」
「ええ。そうよ」
「でも彼は冬子って呼んでたわ」
「そうね。どっちでも同じなのよ」
「でもあなたはさっき、とってもきっぱりと私は春だって言ったわ」
「そうだったわね。あの時は何故かそう思ったのよ。それに、他に何も言う事がなかったし」
彼女はお水を両手で持って一気に半分飲んだ。
「コーヒーよりお酒の方がよかったかしら?」
彼女が頷いて言う。「ビールを飲みませんか?ピザに良く合うし」
私はそれに同意した。そしてウエイターを呼び、ビールを頼み、コーヒーと紅茶は後にしてもらった。
ビールはすぐに運ばれてきた。それを二人で乾杯して飲む。
「わーっ、おいしい」彼女がそう言って笑う。
「あんなにひどく泣いたから水分が足らなくなったのよ」私がそう言うと彼女は舌を少し出してもう一度笑った。
「久しぶりに随分怒鳴られたわ」彼女が肩をすくめるようにしてそう言った。
「彼ってそんなに怒鳴るの?」私が尋ねた。
「ええ。結構ね。春さんは怒鳴られたことないですか?」
「ええ、全然」
「そうですか。私なんか一年付き合ってて、五〜六回怒鳴られたわ。二ヶ月に一回づつぐらいかしら?ベロンベロンになるまで飲んで、それで殴ったり怒鳴ったり」
「まぁ、ひどい男ね!」
「殴ったりって言うのは私をじゃなくって、大体お店にあるものだとか、道のカンバンなんかですけどね」私は頷く。
多分、私がお水を上げて彼を寝かし付けた時がそうだったのだろう。
彼女が尋ねる。「春さんはどの位彼と一緒に居るんですか?」
「もうすぐ五年よ」
「なのに彼が酔っ払って怒鳴り散らしているところを見たことがなかったんですか?」
「そう。酔っ払って帰ったら、私がコップにお水を一杯注いで彼に上げるの。そして『正人君、一人で寝られるわよね』って言うと彼はそのまま自分の部屋で寝ちゃうの。それだけよ」
彼女はとても不思議そうに私を見た。
彼女と私の分のピザが運ばれて来た。私も夕食を取り損ねていたのでしばらくは黙ってそれにかぶりついた。
途中でビールをもう一本づつおかわりする。そして全部食べ終えて、また煙草に火を付けた。
彼女が言う。「もう半年以上前に彼とは別れたんです」私が頷く。
彼女は運ばれてきたコーヒーを混ぜながら続ける。「でも、忘れられなくて。時間がある時はいつも駅で彼を待ってた。だって彼はどこに住んでいるのかも教えてくれなかったし、ただあの駅で降りるって言う事だけしか知らなかったから」
「それで今日やっと会えたのね」彼女が頷く。
私が続ける。「彼のことが好きなんだ」彼女は以外にも首を横に振った。
「本当は、良く判らないんです。さっきは成り行き上あんなふうに言ったけど、ただ忘れられなかっただけかも知れない。彼は、私のこんな気の強さや、わがままさを誉めてくれた、ただ一人の男の人だったんです」
私が言う。「ありのままのあなたを受け入れてくれたんだ」
「多分」
私は紅茶を口に運ぶ。彼女もコーヒーを飲み干した。しばらく二人は黙っていた。その後彼女が煙草に火を付け、顔を上げて言った。
「春さんって、遠藤春って言うんですよね」
「ええ、そうよ」
「あのレディースコミックに物語りを書いている人じゃないですか?」
「読んだことがあるの?」
「やっぱりそうなんだ。彼の部屋にオフィス春って言う表札が有ったから、もしかしてそうじゃないかなって思ってたんです」
「何だか恥ずかしいわね」
「恥ずかしいことなんてないですよ。私、結構春さんの書いたもの好きなんです。いつも載っている訳じゃないから、新刊が出たら一応載ってるかどうか確かめてから買うんですよ。『バカヤロー』って言うのと『石』がとても気に入ってるんです」
「どんな所が?」
「あの『バカヤロー』で最後に車の中のミラーに向かってこの変態野郎って叫ぶじゃないですか。そこにちゃんとその彼に対する愛情と、その彼が昔の彼女に対して持っていた愛情みたいのがあっけらかんと書かれてて、あれっていいですよ。ちゃんと空の青さがそこにあって。それと『石』のシュチュエーションがいい。真っ赤なコートを着て背筋をしゃんとのばして風のように歩く女性。それに、昔あんまりカッコ良くなかった男の人がちゃんといい男になってて突然ダイヤモンドを送ってくるところなんか。それにどちらの女性も、物欲しげじゃないところがいい。ちゃんと自分の足で歩いてて、その上ちょっとエッチで。どんな人が書いてるんだろうってずっと思ってたんですよ」
「こんな人です」私が言った。
彼女が弾かれたように笑う。とても天真爛漫な娘だ。
「どうもありがとう。そんなふうに読んで貰えるととっても嬉しいわ。私はいつも言葉で絵を描きたいって思ってるのよ。正人みたいに絵を描く才能はないから、私の言葉で誰かの頭の中に絵を描けるといいなって」
彼女がちょっと目を反らして、そして言った。「春さん。ごめんなさい。私、あなたの宝物の絵を壊しちゃったんですよね」
「気にすることなんてないわ。正人が何も描けなくて悩んでいた時に、私の中にある大切な風景を彼に伝えたのよ。それを彼が自分の頭の中で絵にして、そして本当に描いてくれたの。だから、本当の宝物はずっと私の中にあるのよ。あなたが真っ赤なコートを着て風のように歩く女性を見たのと同じよ」
「でも、彼は泣きながらあれを片付けてた。私、私・・・」彼女はまた泣出しそうな顔をした。
「ユミコちゃん、もう泣かないで。そのことは正人君とあなたの間のことだから私には何も言えないけど、でもあなたってとっても素敵な女の子よ。正人君があなたに言った事に私も同感だわ。あなたの気の強さも、わがままなところも、私から見ればとっても魅力的よ。そしてとても素直に物を見ているし、自分をとても素直に表現する事も出来る。感情の起伏の激しいところも、天真爛漫な所も、とっても素晴らしいわ」
「慰めてくれてどうもありがとう」
「違うわよ。私はそんなに親切じゃないわ。慰めてるわけじゃないの。私もあなたを見習って素直に言ってみただけよ」彼女はとても素敵に微笑んだ。
「さあ、帰りましょう。私にはもう一仕事残っているし。あなたは一人で帰れる?」
「大丈夫です。私もう二十五歳ですから」
「そう。じゃぁ気を付けて帰ってね」私はそう言って伝票を取った。
彼女が言う。「春さん。割り勘にしましょう」
私が言う。「大切なファンを失いたくないわ。気にしないで、私が誘ったんだから」
「そうですか?すみません」
私はレジで精算を済ませて外に出る。
彼女がピョコンと頭を下げて言う。「ごちそう様でした」
「どういたしまして」
私は彼女を駅まで送って、取り敢えず部屋に帰った。
リビングに彼の姿はなかった。私はそのまま自分の部屋に入る。コットンのセーターを着た彼が私の荷物置き場と化したベッドに腰掛けていた。
「何してるの?」私が尋ねる。
彼が捨てられた子犬のように不安を一杯に湛えた目を上げて答える。
「ごめん。勝手に入って・・・。君を待ってたんだ」
「そう」私はわざとそっけない声で言った。
「出て行くの?」彼が尋ねる。
「多分ね」私が答えた。
「行くあてはあるの?」
「ホテルへでも泊まるわ」
「何か食べた?」
「ええ」
「説明を聞いて貰えるだろうか?」
「そうね。でもここじゃ、座るところもないわ。リビングに行きましょう」
私はそう言って先にリビングに出た。彼も少し遅れて出てきた。そして言う。「冬子」
私は首を傾げる。
彼が続ける。「冬子、出て行かないでくれ」
私はもう一度首を傾げてみせる。「僕は君を失ったら、どうしていいのか判らない。君が戻って来るまでずっと考えていたんだ。君を失った僕がどうして生きていけばいいのかって。でもやっぱり判らなかった。ユミコの事はちゃんと説明する。それにちゃんとかたを付ける。だから、だから君を傷つけたことを許してくれないか?僕のことを許してくれないか?」
彼は私を傷つけたことを詫びている。しかし私は彼が言うように傷ついたのだろうか?謝ってもらわなければならないほど、私は傷ついたのだろうか?
私は首を一振りし、何も言わずに、キッチンへ行ってグラスに氷を入れて持ってくる。それを彼の前に置いて言った。「私のウイスキーはもう片付けちゃったの」
彼が頷いて自分の部屋からウイスキーの瓶を持ってきた。そして栓をとって二つのグラスに注ぎ分けた。その一つを私は手に取って一気に飲み干す。そして言う。「おかわり」
彼が今度はなみなみと注ぐ。それを私はまた一気に飲んだ。
私の胃の中でウイスキーがグルグル回っていた。そしてもう一杯彼に注がせてそれを一気に飲み干し、ソファーに横になった。
天井が回っていた。目を閉じると今度は自分のからだが回り始めた。奇妙な浮遊感の中で私は言う。
「正人君。私、ユミコちゃんとご飯を食べてきたんだ。とっても素敵な子だったわ。素直で、純心で、天真爛漫で、どれも私にないものばかりだった。その上若さも持っていた。激しく求め、怒り、そして与えられないことに対しての恐れさえも持っていない。いいわね。涙が出るほど羨ましかった。あの年頃の私には、人前で流す涙さえなかったの。こうやって何かを切り捨てながらしか生きてこれなかったのよ。私がいけなかったのかしら?一番最初の釦を掛け違えたから?それで誰も愛せなかったの?トオルがね、言ったの・・・・私眠い」
私は薄れ行く意識の中で正人に抱え上げられるのを感じていた。とっても無防備だった。彼の腕の中で安心していた。とても長い一日が終わったのだ。私はそう思って眠った。
目覚めた時、私は正人の腕の中だった。彼のおなかがグーっと鳴くのが聞こえた。
「今何時?」
「五時を少し回ったところだよ」
「ずっと起きてたの?」
「ああ」
私は彼の暖かさを背中で感じていた。
「私、まだ酔ってるかしら?」
「起きてみれば?」私は彼の腕の中で首を振る。
「もう少しだけこうしているわ。後五分だけ」
「君が望むのならずっとこうしていてもいいよ」
「あなたが飢え死にしちゃうわ」
「構わないよ。冬子を抱いたまま死ねたら、もう悩まずにすむ」
「正人。あなたは基本的に悩むのが好きなのよ。だからどうしても悩んじゃうの。私を抱いていようといまいと関係ないの」
「そうだろうか?」
「そうよ。それと一つだけ言って置きたい事があるわ」
「何だろう」
「泣いてる女の子をセックスする事でなだめようとするのは、止めた方がいいわ。なんの解決にもならないもの。どんどん相手を傷つけて、その傷口を深くするだけよ」
「判った。覚えておくよ」
「そうするといいわ。」
私はそう言って、目を閉じて百まで数えた。そして彼の腕の中から起き上がる。彼も一緒に起き上がった。
私はしっかりと自分の足で立ち上がって窓の側まで歩いて行く。
窓の外はまだ真っ暗だった。「まだ暗いわ」
彼がベッドに腰掛けたままで言った。「もうすぐ夜が明けるよ。毎日決まってることなんだ」
私は振り向いて言う。「そうね。まちがいなく夜はあけるわ。そしてまた新しい一日が始まるの」
彼が頷いた。
私は彼の部屋の扉を開けてアトリエを通って外に出る。そして大きな声で言う。
「パンケーキを焼いてあげるわ」
私は小麦粉をミルクと卵で時ながら思っていた。彼は賭けに勝ったのだろうか?それとも負けたのだろうか?
溶いた粉を良く熱して少し温度を下げたフライパンの上にのばす。その間に微塵切りした玉葱を水に晒し、ツナ缶を開けてほぐす。そして良く水気を切った玉葱とツナを合わせてタイムとコショウを振り、少しの食塩とたっぷりのマヨネーズで和える。パンケーキを裏返して焼く。フルーツの缶詰を空けてそれも細かく刻む。それは蜂蜜とヨーグルトで和える。出来上がったツナサラダとフルーツヨーグルトを鉢に盛る。そして焼き上がったパンケーキも皿に乗せた。
「正人!出来たわよ」
正人が眠そうな目を擦りながらリビングに出てくる。窓の外が少し明るくなり始めていた。確かに新しい一日が始まった。
あらから半年経とうとしている。
私達の毎日はそれまでの五年間と何も変わらなかった。
冬の始まりの日、秋の終わりの日に彼のグループ展が始まった。彼の春の作品の中に菜花と月の絵があった。今度のそれは、キャンパスに描かれていて、月は三日月だ。菜の花の土手があって、影ではなく私と彼の後ろ姿がちゃんと描かれていた。そして菜の花の線路はずっと遠くまで続き、その一番端に汽車のはいた煙だけが描かれていた。
私はその絵の前で彼の頬に口付けした。「あなたってとっても素敵よ」
彼が答える。「君の方がもっと素敵さ」
私はその夜物語を書き始めた。トオルと約束した彼らと私の青春へのラブレターだ。
「私の本当の名前は冬子。しかし今はみんな春と呼ぶ・・・