ステージ T カズミ
 ステージの袖で、俺は、大きく息を吸い込み、それを少し止めてから静かに吐き出す。
 ステージの上には、真上からのスポットライトに照らされた椅子が一つ在る。背もたれの高い、木の椅子だ。
 俺は、今からステージに出て行き、その椅子に座る。
 何度やっても慣れることはない。全身に緊張が走り、指先まで鼓動を感じる。まして、今日は新しい試み。
 俺は大きく息を吐き出し、頭を一振りして、静かに足を踏み出した。
 ライブハウスにとって、まだ早い時間帯。客席には数えられる程度の客。ほとんどが俺の知り合いだ。
 静かに椅子の位置まで辿り着き、半分だけ光を浴びる角度でそれに座った。
 しかし、それは座るという行為には程遠い。俺は、全身の筋肉を緊張させ、それで居て観客にはそれを全く感じさせないよう、細心の注意を払ってポーズを決めた。

 客席からは、パラパラと拍手が聞こえたが、それもすぐに治まった。その後、少しの間、誰もの目が俺に集まっていた。しかし、出てきたっきり全く動かない俺に、客席はまた始まる前のようにざわめき始めた。
 誰もが少し緊張した様子で、小さな声で話す。そして、ステージの俺をチラチラと見ながら食事をしたり、酒を飲んだりしていた。
 俺は、大きく目を動かさないよう注意しながら、客席を観察する。
 知り合いの居るグループが六組。そして全く知らない女性が一人だけ居た。
 彼女は、暫く俺に注目した後、目を落として、自分の手を見ていた。
 左手にグラスを持ち、それを口に運ぶ。そして、右の掌を丹念に眺め、その後それをひっくり返して甲を見る。その後、右手にグラスを持ち替えると、左手も同じように丹念に見た。そして、グラスをテーブルに置くと、両手を広げ、とても長い時間かけて、それを見た。
 俺の身体は、筋肉が悲鳴を上げながら、ギシギシと軋んでいた。しかし、まだ動き始めるには早すぎる。
 手を見ていた女性が、ボーイを呼び、今飲んでいるものを指さすと、その指を立てて見せた。他の客もまた、少しづつ俺に視線を戻し始めていた。
 彼女の飲み物が運ばれてきて。彼女は、それを一口含み、煙草に火を付けた。それをゆっくり吸い込むと、また静かに吐き出し、俺を見た。
 俺から見て右の前に居る友人のグループの一人がまだ何か話していた。それに対して友人が肯くと、彼らの視線もまた俺に集まった。
 俺は、動く時が来たのを知った。心の中でゆっくりと三つ数える。そして、手を見ていた彼女が注目しているのをもう一度確認して、顔を上げた。
 俺は、筋肉の緊張を徐々に解く。しかし、客席からは全く力の無かった体に、少しづつ力が戻るように見えている筈だ。
 俺は、そこにいる全ての人間の視線を感じていた。
 ミシミシ言っていた身体で、なめらかに動く。それはもう、何年も訓練を積み重ねてきた、俺の仕事。身体が自然に動くことを喜んでいた。
 手を見ていた彼女の指の間から、長く伸びた煙草の灰が落ちるのが見えた。俺は彼女の視線を奪ったのだ。その時、勝利の感触を俺は手にしていた。

 ステージを終えて、楽屋に戻り、スタッフの感想を聞く。彼らの感想は賛否両論在った。動かない時間の長さに於いてだ。長すぎると言った者と、丁度良いと言った者が、およそ半々だった。
 それはそうだろう、俺はスタッフのタイミングまで計っては居なかったのだから。

 衣装を着替えて、客席に降りる。一番手前、最後まで話していたグループだ。
 「よう、久しぶり」俺がその友人川口修に声をかけた。
 「ケンジ、元気だったか?」奴がそう言った。
 「見ての通りだ。ところで今日のステージはどうだった?」俺は奴の顔色を伺いながら尋ねた。
 「面白い演出だったな、でも、俺には判らないよ」川口は少し顔をしかめて見せるとそう答えた。
 「そうかぁ、ちょっと新しい事をやってみたかったんだがなぁ」俺は笑顔を作ってそう言った。
 奴は、肯いて見せ、悪戯っぽく笑って言う。「良かったよ。あのタイミングの取り方と、静と動のコントラストが素晴らしかった。明後日のステージも楽しみにしてるぜ」
 「そうか。良かったか!お前が恐い顔してるから、ダメだったのかって思ったよ」俺は、奴の肩を掴み、揺すぶりながら言った。
 「痛い、痛い。大丈夫だよ。他の奴らにも聞いて来いよ!」川口は、俺の腕を振りほどくと、笑って見せた。
 「そうする。ありがとう!」俺はそう言って川口の居る席を離れ、隣の席に回った。

 「ねぇ、どうだった?」そのテーブルには、高校時代の同級生の山本美子が、男連れで座っていた。
 「面白かったよ。それにしてもケンちゃん、いつも変わったこと考えるねぇ」
 俺は、照れ笑いを浮かべて答える。「そうか?楽しんで貰えた?」
 彼女はそれに対して大きく肯いて見せた。そして、連れの男性を夫だと言って紹介した。俺はその男と握手して言う。「良かったら、明後日のステージも見に来てよ」
 「ええ、そのつもりしてるわよ。ちゃんとチケットも田中君から買ったから」
 田中というのは、この店のオーナーで、やっぱり高校の時の同級生だ。そして、今も俺の親友。
 「ちょっとは負けて貰ったか?」美子に言う。
 「まさか、あの子が負けるわけないじゃない。しっかりしてるんだから」ちょっとふくれっ面をして見せて、彼女が言った。
 「まぁな!取り敢えず、俺も田中も貧乏だから、助けるつもりで頼むな」
 「判ってるわよ。明後日は頑張ってね」彼女は笑いながらそう言った。
 「ありがとう」俺は、そう言って、残りのテーブルを回る。

 大方の感想は、良かった。俺はそれに満足していた。そして、最後にあの手を見ていた女性のテーブルに辿り着いた。
 「こんにちわ」俺が言う。
 彼女は目を上げて言った。「こんばんわ」
 俺は、それに微笑んで返す。そして言い直した。「こんばんわ。ステージどうだったか、聞かせて貰えない?」
 彼女は、手に持っていたグラスを置くと、言った。「とても感動してるわ。良かったらそこに座って、何か飲んでいかない?奢りたいの」
 「じゃあ、ご馳走になるよ」俺はそう言って彼女の前の椅子を引き、そこに座った。そして、ボーイを呼んで、彼女と同じものを注文した。
 彼女は、煙草を一本取り出して、それに火を付けた。俺は、その彼女の手の動きを観察する。彼女は、煙を少し口をすぼめて静かに吐き出すと、目を上げて言った。
 「とっても感動したわよ」彼女はそう言って視線を落とす。
 「ありがとう」俺は短く礼を言う。
 彼女が視線を落としたまま言う。「ごめんなさい、私あなたの事何も知らないんだけど、あなたっていつもこんなステージをやってるの?」そう言い終わって、俺の顔を見た。
 俺は、オーバーに笑って見せて言う。「いや、今日のは新しい試みだよ。いつもは割と古典的なパントマイムだとか、まぁ、新作でもそれを踏襲したものをやってるんだ。なるべくコミカルなものを心がけてはいるけどね」
 彼女の大きな瞳が俺を捕らえると、言った。「今日のもパントマイムなの?」
 俺は、曖昧に首を振る。「多分違うと思うよ。どっちかと言うと舞踏に近いかも知れない」
 彼女が肯いた。「そう思うわ。あなたは、身体全部で見えない何かを表現していたのよね。何かの形を真似してたって感じじゃなかった」
 俺は、それに肯いてみせる。
 彼女が続けた。「題は、なんて言うの?」
 俺が答える。「まだ決めてないんだ。君にはどんな風に見えた?」
 彼女は煙草を灰皿に押しつけて消すと、きっぱりとした口調で答えた。「復活よ」
 「復活?」俺が聞き返す。
 彼女は大きく肯いてみせると言った。「そう、復活。私には動かなかったあなたが死んでいたように見えたの。そして、それが見事に復活を果して、歓喜の舞を舞ったように思えたわ。あの椅子に座っていたあなたは、休んでいたわけでも、眠っていたわけでもない。死んでいたのよ。そして、その死者が見事に蘇った」
 その時、俺の頼んだものが運ばれてきた。
 俺は、そのグラスを持ち上げて言う。「頂きます」
 彼女は、そのグラスに自分のグラスを軽くぶつけて言った。「復活に乾杯!」
 彼女と俺は、一口づつそれを口に含んでグラスをテーブルに置いた。
 彼女は、少しはにかんだ様子で言う。「私、あなたの名前、知らないの」
 俺は、ちょっと意地悪な言い方をする。「表に書いて貼ってあっただろう?」
 彼女は、少し媚びるように微笑むと言った。「見てこなかったのよ。今日見るのは、誰でも良かったから」
 俺は、大げさに肯いて見せてから、言う。「カサイケンジって言うんだ。年は最近三十五歳になった。ところで、俺は入るときに良く見て入ったけど、君の名前は書いてなかったようだね」
 彼女は、俺の目を見て、すぐにグラスに目を戻すと言った。「カズミ。佐々木カズミって言うのよ。年は言わないわ」
 俺は、それに対してオーバーに肩をすくめてみせる。
 彼女が、ため息混じりに言った。「あなたの顔って、本当にくるくる変わるのね。いったい本当の顔ってどんな顔なのかしら?」
 「興味在る?」
 彼女は、即座に俺の目を見て答えた。「ええ、とっても」
 俺が言う。「実を言うと、最近自分でも、どれが俺の顔なのか判らなくなることが在るんだ」
 彼女は、その冗談に笑った。
 俺は、そんな彼女に興味を持ち始めていた。彼女が言ったように、俺も彼女の素顔に興味が湧いてきたのだ。一人黙って、ライブハウスで手を眺める女性。そして、思ったことをすぐに口に出来る強さ。好奇心の塊のようでありながら、何処かシャイな感じがする。俺は、酒を口に含んでそんな事を思っていた。
 彼女は、そんな俺をじっと見ている。俺は、その視線に微笑んで返す。そして尋ねた。
 「どんな風に、感動したの?」
 彼女が答えた。「あなたが死んで見せてくれたことによ。そして、復活を果したあなたが、しなやかに舞うのを見て、生きてるって楽しいことなのかも知れないって思ったの」
 俺は、その彼女の言葉について考える。彼女の今居る背景。きっと何かに悩んでいるのだろう。もしかしたら少し疲れているのだろうか。彼女は、生きることが少しだけ辛い時期に差し掛かっているように思えた。
 俺は、彼女が丹念に眺めていた、彼女の手を見る。右手の薬指と人差し指。そして、左手の小指と中指に指輪があった。爪の形は綺麗に整えられていたが、染められてはいなかった。主婦の手のようには見えない。手に対しての指のバランスも、指に対しての爪のバランスもとても良い。しなやかな動きをするのだろう。決して節くれ立っているわけではないが、強い意志と力を秘めているように感じた。
 その後、彼女の顔に目を移す。手から受けるイメージと良く似た、しかし、手よりも少しだけ頼りなげな雰囲気を湛えた顔だ。歳は、三十ぐらいか・・・。俺には良く判らない。
 俺は、グラスに残った酒を飲み干して、言う。「ご馳走様。もし良かったら、これから一緒に食事でもしない?」
 彼女は、じっと俺の顔を見つめているだけで、答えない。
 俺は、おどけた表情を作って言う。「何か予定でもあるのかな?」
 彼女は、首を振って答える。「そうじゃないわ。誘われてすぐに返事をするほど、若くないだけよ」
 「どれくらい待てば返事を貰えるぐらいの歳なんだろう?」
 彼女が微笑んで答える。「そろそろ答えても良いぐらいの歳よ」
 俺は、じっと彼女の顔を見ながら答えを待つ。
 彼女は、力のある目で俺を見つめ返すと言った。「良いわよ。一緒に食事しましょう。だって私、あなたにとっても興味が在るもの」
 「オーライ。じゃあ、もう少し此処で待ってて。後かたづけをしてくるから。御願いだから、俺が来る前に酔いつぶれたりしないでね」
 彼女は楽しそうに笑った。

 俺が、後かたづけを終えて、客席に出てきた時、ステージでは違うバンドのライブが始まっていた。新しい客も増え、客席はほぼ満席になっていた。
 俺は、カズミの肩に手をかけて言う。「行こうか?」
 彼女は肯いて立ち上がった。
 俺は、彼女のレシートを取って精算する。
 彼女が不満そうに行った。「私が、あなたに奢るって言ったのよ。あなたに奢って貰っちゃ、後が恐いわ」
 「恩に着て貰えると、後がやりやすいんだけどなぁ」俺がそう言うと、彼女は困ったような顔で俺を見た。俺は笑って見せて言う。
 「これぐらいの金で、君を買えない事ぐらい判ってるよ。君を買うには、少なくともその指輪全部買えるぐらいの金が要るんだろう?」
 彼女が冗談に気づいて笑う。「そうね、多分あなたはそれだけのお金を持ってないと思うわ。貯金全部はたいても、これ一つ分ぐらいよ」そう言って、左手の中指の指輪を見せた。
 「綺麗なガラスだねぇ」
 「ダイヤよ」彼女が笑って言う。
 それにしても大きかった。指ぬきのような太さのリングに、直径6〜7ミリに見えるダイヤが埋れていた。
 「確かに、それ一つも買えないだろう」俺が正直に言う。
 「だから、あなたに奢って貰わなくても良いのよ」
 「でも、もう払ったから良いよ」
 「判ったわ。ご馳走様でした。そうだ、じゃあ食事は私に奢らせて。いつも行きつけの店があるから、そこへ行きましょう」
 「それは良いけど、誘ったのは俺だよ。だから俺が奢るからそこへ行こう」
 「気にしないで、私が奢るって言った分をあなたが払ったんだから、今度は私が払っても良いじゃない。それにこういう口論って、まるでおじさんとおばさんみたいでみっともないわ」
 「確かに」

 外に出ると、細かい雨が音もなく降っていた。
 彼女は、俺の少し後ろを歩きながら言う。「あなたって本当に身のこなしが綺麗だわ。うっとりするぐらい」
 俺は振り向いて言う。「仕事だからね」
 彼女は、その言葉に、首を傾げ、微笑んで見せた。
 少し大きな通りに出て、彼女はタクシーを止めた。自分が先に乗り込み、俺が乗り終わるのを確認して、運転手に行き先を告げた。それは俺の行ったことのない住宅地の名前だった。運転手は愛想良く返事をすると、車を出した。
 「そんなところに良い店があるの?」俺が尋ねる。
 「ええ、家の傍なの。一人の時にはいつもそこで夕食を食べるのよ」
 俺には彼女が何を考えているのかが計りかねた。しかし、何も不都合なことがないので、黙って付いて行く事にした。

 雨は、ワイパーを間欠で作動させる程度の降り方だった。
 二十分ほどで目的地に着いた。
 俺は彼女に押し出されるように車を降りると、彼女は料金を払って後から降りてきた。
 マンションのような建物の外に「ビストロ・ルージュ」と書かれた、小振りの看板が在った。
 彼女は「此処よ」と言って先に入る。俺もそれに続いた。
 中に入ると、支配人のような男が足早にやって来て、彼女に言った。
 「佐々木様。いらっしゃいませ」
 彼女は慣れた感じで言う。「奥は空いているかしら?」
 「はい。すぐにご用意いたしますので、此処でお待ち下さい」そう言って、また足早に去っていった。
 俺は彼女に尋ねる。「カズミってもしかして、社長夫人かなんかなの?」
 「婦人じゃないわ」そう言って俺の目の前で、指輪の無い左手の薬指を動かせてみせる。
 「それってもしかして、社長って言う事?」
 彼女は笑って肯くと言う。「そうは見えないでしょう?」
 俺は正直に肯いてみせる。
 「みんなそう見えないって言うの・・・。そんなに頼りなくって良く社長なんてやれるねって・・・。でも、私が頼りないからみんなが助けてくれるのよ」
 俺は本当に感心してため息を付く。「きっと素晴らしい社員を集めたんだね」 
 彼女は、弾かれたように笑うと言った。「会ってすぐなのに、もう見抜かれちゃった」
 
 先程の男が戻ってきて、彼女に言う。「佐々木様、ご用意が出来ました」
 彼女はラフな感じで答える。「勝手に行くから、もう良いわ。シェフのお薦めを二人分御願いね」
 男は微笑みながら「畏まりました」と言うと、俺達から離れた。彼女はそのまま「行きましょう」と言うと、すたすたと店の奥へ向かった。
 テーブル席が八つと、バーカウンターがある。そんなに広くはないが、落ち着いた雰囲気の店だ。
 彼女は大きく開いている扉から個室の中に入る。そこは広くもなく、狭過ぎもしない。落ち着ける空間が演出されていた。
 セッティングされた席に彼女が先に座り、俺も勧められるまま彼女の前に座った。
 ギャルソンがすぐにやってた。
 彼女が俺に尋ねる。「ワインはどんなのが好みなのかしら?」
 「料理がどんななのか判らないけど、出来れば、あまり強すぎない味で、まろやかな香りの赤が良い」俺が答えた。
 彼女が肯いてギャルソンに向かって言う。「兼田さんにそう伝えて、選んで貰って頂戴」 ギャルソンは感じよく微笑むと、そのまま部屋を出ていった。
 俺が尋ねる。「いつもフランス料理を食べてるの?」
 彼女が笑って答える。「そうよ。でもあなたが思ってるのとはちょっと違うと思う。今日のはちゃんとしたフレンチだと思うけど、私一人の時にはシェフが家庭料理みたいなのを、栄養とかカロリーとかを考えて、私のために作ってくれるのよ。自分で一人分づつ作るより結構安上がりだし、私より此処のシェフの方が絶対的に料理が巧いの。此処に来るのは、作るのに失敗して、不味いものを一人で食べる羽目にならないための保険みたいなもの。だって、一人で食事するだけでもかなり淋しいのに、それが不味かったりしたら最悪だと思わない?」
 「それはそうだ」俺が相槌を打つ。
 「だから月の内半分ぐらいは此処で食べるの。後は、友人と食べたり、恋人と食べたりするわ。その時は一人じゃないから何でも食べるのよ。女一人で夕食を摂ってる姿って本当にみっともないのよ」
 「でも、たいていの人はそんな事気にしてないだろう?」
 「そうかしら?大抵の女の人は、一人で夕食を食べたりしないものよ」
 「カズミは、その恋人との結婚は考えてないの?結婚しちゃえば一人で食べなくても良いじゃないか」
 彼女は首を横に振って言う。「彼とは、良いコンディションの時しか会いたくないのよ。だって、いつも元気ではいられないもの」
 「今日はコンディションが悪かったの?」俺が尋ねる。
 彼女は少し間をおいて答えた。「そうね、年に何回か在るのよ」
 「何が?」
 「何となくテンションが落ちて、何に対してか判らないんだけど不安になる時が・・・」
 俺は、首を傾げて次の言葉を待つ。
 彼女は自分の心の中を覗くように、少し目を閉じてから言った。
 「忙しいとか、暇だとかって、あんまり関係ないのよね。そう、季節の変わり目で、今日みたいに雨が降った時なんかにそうなっちゃうみたい」
 「そんな時はどうするの?」
 彼女は素敵に微笑んで言った。「一人でライブハウスへ行って、全く聴くに値しないような下手くそな若いミュージシャンのロックを聴くのよ。彼らって滅茶苦茶だけど、とてもパワフルなの。演奏している人達も、それを聴く人達もね。そして次の日にカラッと晴れちゃったりしたらもう完璧よ」
 「でも、今日はロックじゃなかったんだ」
 彼女が肯く。「そうなの・・・。今回はちょっと感じが違ったのよ。私、昨日も一人でライブハウスへ行ったのよ。それで思った通りの若いミュージシャンのロックを聴いた。でも、今朝起きてもまだテンションが上がってなかったの。きっと雨が降り続いているせいもあると思うんだけど・・・。それで今日も早めに仕事を切り上げてあのライブハウスへ行ったの」
 「そこで俺と出会った」
 「そうね。それで感動を貰ったわ。多分明日の朝には完璧じゃないかしら?」
 ワインと料理が運ばれてきて、俺達はそれを楽しんだ。
 ワインは俺の思ったとおりの味で、香りの良いものだった。料理も、普通のフレンチと違って、日本人の口に合うようにアレンジされているようだ。しっかりと作り込まれた見た目より、味の方はさっぱりと仕上がっている。
 「どうして君は手を見てたんだい」俺が口の中のものを飲み下してから言った。
 彼女は驚いたように顔を上げた。「あなた、ステージから見てたの?」
 俺は黙って頷き、グラスに残ったワインを飲み干して言う。「他に何もすることがなかったものでね」
 彼女は俺の空になったグラスにワインを注いで言う。「私もね、他に何もすることがなかったのよ。だってあなたは出て来たっきり全く動かないんですもの」
 俺は、顔全体で笑って見せた。そのぐらいのことは仕事柄簡単だ。
 彼女が言う。「あなたって本当に表情が豊かね。それも訓練の賜物なの?」
 「そうだよ。君も少し訓練すれば、綺麗に歳を取れるかも知れない。多分美容整形をするより効果的だと思うよ」
 彼女が不満げに言う。「それって私がブスだって言ってるの?」
 俺は慌てて顔の前で両手を振った。「違う違う。筋肉の訓練について言ってるんだ。ブスだとか美人だとかって言う問題じゃない。顔の作りじゃなくって表情のことだよ」
 「私の顔って、そんなに表情がないのかしら?」
 「どう言えば良いんだろう。君はそのままで充分キュートだよ」俺はいつも要らないことを言って失敗してしまう。
 彼女が焦った俺を恐い顔でじっと見つめていた。そして、我慢しきれなくなったように笑い出した。俺は、その笑顔にホッと一息つく。
 「ケンジって本当に何処を見ていても飽きないわねぇ。顔の表情も、手の動きも、首の傾げ方まで計算された動きみたい。今日は本当に得した気分よ」
 俺は、誉められたのかどうなのか良く判らなかった。しかし、彼女は本当に満足しているようだった。きっと誉めて貰ったのだろう。俺はそう思うことにした。
 「カズミって、本当に綺麗なものが好きなんだね。指輪も沢山付けているし、此処の料理だって、見た目も味も素晴らしい。なんの会社をやってるの?」
 「鉄を作っているのよ」
 俺は驚いて言う。「嘘だろう?」
 「もちろんよ。本当はこういう洋服を作っているのよ」そう言って自分のスカートをつまみ上げて笑った。
 「驚いた。そうだろうね。それだったら判るよ。デザイナーなんだ」
 彼女が微笑んで肯く。「そう、社長って言っても、社員と一緒に仕事をしているのよ。朝早くからちゃんと出社して、デザインを決めて、それを工場で縫って貰うの。そして、それを営業担当の男の人が売りに行くのよ。だから、社長って言っても、社長室でふんぞり返ってるわけじゃない。社員だって全部で二十人しか居ないし、そんなに大きく商売しているわけじゃないわ」
 「でも、二十人って言ったら結構居る方なんじゃないの?」
 「まぁ、この業界だと、もっと少人数でも出来るから・・・。普通ぐらいかしらね。あまり大きくしちゃうと、私の作りたい物が作れなくなっちゃうのよ」
 「そう言うものなんだ」
 彼女が微笑んで肯く。「今だって、社員のお給料を払うために、作りたくないものを作ってお金儲けをするのよ。本当は私、お金儲けってあんまり好きじゃない」
 「そんなものなのかなぁ。俺には良く判らないよ。それに俺には、カズミって充分すぎるぐらいお金持ちに見えてるけど・・・」
 彼女が軽い声で言った。「そんな事無いわ。きっとあなたには想像も付かない程の借金だって在るんだから」
 「社長って大変なんだね」
 「そうよ。借金だって会社の財産ですもの」
 俺は、黙って首を振って見せた。
 食事もほとんど終わり、デザートとコーヒーが運ばれてきた。
 彼女が言う。「この後、どこかへ飲みに行きましょうか?もし、あなたの帰りを待っている人が居ないんだったらだけど」
 「誘ったのは、俺の方だったよね。待ってる人が居るんだったら、誘ったりはしないよ」
 彼女がそれに軽く肯いてから言う。「ケンジ、結婚は?」
 俺が答える。「したよ」
 「簡単な答だけど、解釈が難しいわね。過去形?それとも現在進行形?」
 「過去完了さ。だから今は誰も待ってたりはしないんだ」
 「判った。じゃあ、これを食べたら行きましょう」そう言って、デザートのシャーベットをスプーンですくって口に運んだ。

 個室を出て、カウンターの端に置かれたレジに行き、彼女は支配人のような男に「美味しかったわ」と言って、伝票にサインした。
 俺が、その男に向かって愛想笑いをすると、「またお越し下さい」と言って頭を下げた。折れも、軽く会釈して「ご馳走様」と言う。
 彼女がその男に向かって言う。「彼ね、とても素晴らしいアーティストなのよ。ダンスとか、パントマイムとかって言う、肉体のアーティスト。とても感動的なのよ」
 その男が言う。「そうですか。それは素晴らしい」
 俺は、その男に向かって自己紹介をする。「カサイケンジと言います。もし良かったら一度ステージをご覧になって下さい」
 その男は職業的にでは無く微笑んで言う。「是非、そうさせていただきます」そして俺の方に手を差し出した。俺は、その手を握って微笑んでみせる。良く見ると、その男は俺と同じぐらいの歳のようだった。

 外へ出ると、雨が土砂降りになっていた。
 俺が言う。「凄い雨になったね」
 彼女がそれに答える。「本当ね。じゃあ、家で飲みましょう。お酒なら沢山あるし、帰るのが面倒になったら泊まって行っても構わないから」
 どういう事なのだろう?俺には、彼女の考えていることを計りかねた。彼女は知り合ってすぐに寝るタイプの女には見えなかった。しかし、確かに彼女は俺を自宅へ誘っている。俺は、自分のペースを掴みかねていた。
 「良いのかい?一人住まいなんだろう?」
 「構わないわ。ゲストルームもあるし、みんな家のことをホテル代わりに使ったりするから、なんでも揃っているのよ。だってあなた、この雨の中帰るのって大変でしょう?」
 「タクシーを呼べば大丈夫だよ」
 彼女が言う。「まぁ、取り敢えず家に帰って考えましょう。そのマンションだから。少しだけ走るわよ」そう言って、道を挟んだ向かい側の建物を指さして、雨の中に走り出た。俺も、それに続いて走る。

 雨は、二十メートル程の道を渡っただけで、結構濡れる程の強さで降っていた。
 彼女がカードのようなものを玄関にあるスリットに差し込むと、玄関の扉がスルスルと開いた。そしてホールに入ってエレベーターを呼ぶ。
 エレベーターの扉はすぐに開いた。彼女が先に乗り込み、最上階のボタンを押した。十三階だった。エレベーターは、低い微かな音を立てて、上昇した。
 扉が開いて、エレベーターを降りると、まるでホテルのような、絨毯が敷き詰められた廊下が延びていた。彼女は突き当たりまで歩くと、さっきと同じカードで鍵を開け、大きなスチールで出来た扉を押し開ける。
 「どうぞ、遠慮しないでね」
 「お邪魔します」俺はそう言って中に入る。
 綺麗に片づいた玄関で靴を脱ぎ、揃えられたスリッパを履く。彼女も靴を脱いでスリッパをつっかけると、先を歩いた。そして、木で出来た大きな扉を押し開けて、俺を招き入れた。
 そこは、とても広いリビングだった。そして、その奥にキッチンが在った。リビングとキッチンの丁度間ぐらいの所に、向こうの見える階段があって、上に部屋があるようだった。
 「あなた、濡れたでしょう?良かったらバスを使ったら?」階段を上りかけた彼女がそう言って手招きをする。俺は、どうにでも成れと言った気分で、彼女の後に続く。
 階段を上った所には、廊下があり、三つのドアがあった。彼女は、一番右側のドアを開けて、照明のスイッチを押した。
 「この部屋を使って頂戴。中から鍵もかかるわ」そう言ってスタスタと中に入り、奥にあるドアを開けて、何かのボタンを押した。そして、呆気にとられている俺に向かって説明を始めた。
 「お風呂に今、お湯を張っているから、五分ほどで入れるわ。タオル類も揃っているから好きに使ってね。パジャマは戸棚に入っているから」
 俺は、半ば呆れて言う。「普通のホテルよりサービスが良いんだ」
 「そうでもないわ。説明するのは初めての時だけよ。後は、みんな勝手に使って帰っちゃうの。そうだ、パジャマはメンズとレディスがあるから、気を付けてね。最近、恋人同士で泊まりに来て、ラブホテル代わりに使う奴が沢山居て、困ってるのよ。でも、結構楽しいんだけどね。 此処でだと遅くまで飲んでも帰りの心配がないもの。お風呂が終わったらリビングに降りて、くつろいでて。キッチンには冷蔵庫もあるし、戸棚にはお酒も入っているわ。どれでも好きなようにやってて。私もお風呂を使ってから降りるから」そう言って、部屋を出ていった。
 俺は、二つあるベッドの手前の方に身体を投げ出して、大きく伸びをする。『本当に金持ちなんだぁ』と思いながら、起きあがってバスルームを覗いた。
 普通のホテルにあるバスルームと同じものだった。お湯も半分ぐらい溜まっている。
 俺は、着ている物を脱いで、バスタブに身体を沈めた。丁度良い温度のお湯だった。
 彼女が外からノックして大きな声で言った。「さすがにブリーフは無いけど、新しいトランクスがあったから此処に置いておくわね」
 俺も大きな声で答える。「ありがとう」
 バスタブの中で、ステージで使った筋肉を延ばし、少し熱めのシャワーでそれを解した。そして、シャンプーを終えて、バスローブを羽織ってバスルームを出た。
 彼女がベッドの上に、紙の箱に入ったトランクスを置いてくれていた。
 それを履いて、クローゼットを開ける。棚の上には、クリーニングの袋に入ったままのパジャマが花柄とストライプのものが二つ置かれていた。
 俺は、ストライプの方のパジャマの袋を破り、それを着た。
 何がなんだか判らないが、とにかくそれでくつろいだ気分に成れた。
 「俺の手に負える女じゃないなぁ」そう呟いて、クローゼットの鏡の中で笑って見せた。

 俺は、部屋を出て、階段を下りる。そして、キッチンへ行って冷蔵庫を開けた。
 缶ビールを一本取り出して、プルリングを引き、それを一口飲んでから冷蔵庫の中を点検する。半ダースほどのビールの他に、何種類かづつのハム、チーズ、ジュース、ヨーグルト、そして牛乳が入っていた。それと、ハーシーズのチョコレートもあった。その扉を閉めて、野菜専用室の扉を開ける。その中には、レタス、キュウリ、トマト、それと季節はずれの葡萄が入っていた。最後に冷凍庫を開ける。何種類かの冷凍食品がきちんと整理されてつまっていた。氷も充分出来ていた。その後、俺は、戸棚を開けてみる。インスタント食品が何種類かと、缶詰類が沢山、酒類も充分な量が蓄えられていた。
 「戦争になっても、暫くは食べられる」俺はそう独り言を言って、戸棚の中からブランデーの瓶を取り出した。それと、食器棚から柔らかな手触りのグラスを選び出して、リビングのテーブルに運ぶ。そしてまた、キッチンへ戻ってビールを飲み干した。俺は、思いついて冷蔵庫の中からチョコレートをとりだし、それと、氷をアイスピッチャーに入れて、リビングに運んだ。

 俺は、窓のカーテンをあけるる窓の外は、強い雨に煙っていた。
 俺は、立ったまま、グラスに氷とブランデーを注ぐ。それを一口含んでまた窓を見る。外が暗いので、窓ガラスが鏡のようになっていて、グラスを持った俺がこちらを見ていた。
 俺は、グラスをテーブルの上に置いて、窓に向かい、両手を広げて胸を張る。そして、静かに何かを抱きしめる。それは、自分でも良いし、カズミの肉体でも良かった。両手で指の先まで何かを感じて、抱くという行為を完成させる。その抱きしめたものがだんだん小さくなって、最後には丸い玉になってしまう。俺は、そのまま暫く、その玉と戯れていた。
 突然後ろで、拍手が起こった。振り向くと、部屋着に着替えた素顔のカズミが、階段の途中に腰掛けて、嬉しそうに手を叩いていた。俺は、その拍手に笑顔で答える。
 彼女は、立ち上がって階段を降りると、ソファーの前に座り込んで言った。
 「良い物見ちゃった。まるで私だけの為のステージみたいだったわ」
 「君の方を向いてやれば良かったね」
 「いいえ、あなたの背中がとても美しかったのよ。後ろ姿だけであんなに綺麗だなんて、素晴らしい」
 「それはどうもありがとう」俺は、そう言って彼女のように床に座り込んだ。
 彼女は自分でグラスに氷とブランデーを注いで、それを飲む。
 彼女がグラスを床に置いた途端に、窓の外が光った。その後五秒ほどで大きな音が響いた。彼女が振り向いて窓の外を見る。
 「雷」
 「ああ」
 彼女はグラスを持って立ち上がると、窓の傍まで歩いて行く。そして、俺の方を振り向いて言った。「私、雷って大好きなの」
 「俺は、あまり得意じゃない」俺がそう言うと彼女は肯いてみて、優しく微笑んだ。
 「たいていの人はそうなのよね。でもね恐いものが好きって言う感覚って有ると思わない?ほら、ジェットコースターが好きって言うような感じで」
 「それはそうだけど・・・でも、ジェットコースターで命を落としたりはしないだろう?だけど雷は違う・・・」
 「そうかしら?今の建物の中にいる限り、ジェットコースターよりきっと安全よ。空がとっても綺麗に光って、下手なロックよりおなかの底に響く音がするの。それに、雷の後って、なんだか空が掃除されたみたいで、とっても澄んだ感じがするのよ。空と大気の大掃除」
 彼女が言い終わるか終わらないうちに、稲妻が走った。それは、まるで誰かが巨大な手で、上下から黒い紙を引き裂いたかの如く、窓から見える空を二等分した。そして、何セットかのドラムをそそっかしい奴がいっぺんにひっくりがえしてしまったかのような、大きな音がした。
 俺は、座り込んだまま、雷の通り過ぎるのを待っていた。
 彼女は、暫く窓の外を眺めていたが、また、元の場所に戻って、座り込んだ。そして、笑いを含んだ声で言う。「恐かったら、抱きついても良かったのに」
 俺も笑って言う。「女に抱き付く時は怖い時じゃない方がずっといい。次に持ち込む段取りって言うものがあるからね」
 彼女がクスッと笑った。「男の人って結構いろいろ考えているものなのね」
 「もちろんだよ。なんにでも段取りと言うものがあるんだ。それを無視するとペースが巧く掴めなくて何だか変な具合なんだ。例えば、今こうして君の家に居る事だって、段取りから言うととてもおかしな事なんだ。それで今俺はとても戸惑っている。君のペースで此処まで来てしまった。どうも、自分のペースを見失っている」
 彼女が首を傾げて言う。「私が強引過ぎたのかしら?」
 俺は首を振って言う。「そうじゃない。君は決して強引じゃなかったよ。ただ、君の住んでいる世界と俺の住んでいる世界が少し違うって言う事だ。君にとって何でもないことが俺達にとって何か意味のあることのように思えてしまう。下心があるからかな?俺はステージから一番離れた席で、一人で手を眺めていた君に興味を持った。どこか寂しげで、頼りなげに見えたんだ。あの時俺の体はミシミシと悲鳴を上げていた。多分君にはどこにも力が入っていない状態に見えて居ただろうけど、あのポーズを決めて維持するのにはとても大きな力がいるんだ。その極限の中にいて客席を観察する。そしてすべての人のタイミングを計るのが今日のステージの課題だった」
 「それがとても巧く行ったのね」
 「そう。そのタイミングを計っていた時に、君は手を見ていた。とても丁寧に。すべての指を確認するように。その行為になんの意味があったのか俺は知りたかったんだ。それで君を誘った」
 彼女は少しの間だけ目を閉じていた。それは何かを考えていると言う感じでもなく、話すことをまとめているというものでもない。ただそっと目を閉じて、俺の言葉を耳ではないどこか違うところで聞いているような感じだった。そして目を開けた。その瞳は遠くを見るようで、あくまでも透明だった。それまで俺が見ていた彼女とは、違う人のように感じた。俺は少しドキドキした。
 彼女はその透明な瞳を俺に向けて言った。
 「私は何故手を見ていたのかしら?自分でも良く判らないわ。あの時私は何を考えていたのかしら?そうだわ、何故、左の薬指にはいつも指輪をしないのか考えていたのよ。たいした意味があった訳じゃなかったわ。昔、まだティーンエージャーだった頃からの習慣だったの。まだ夢多いあの頃には、自分で買った指輪をこの指につけるものじゃないって思ってた。でも今はそんな事全然気にしてなんていないのに、ただ習慣としてこう言う配列で指輪を付けて居るんだなって。そんな事を考えていたのよ」そう言って指輪を全部外した両手の指を伸ばしてみせた。そして続ける。
 「そう、一通り指を見終わって、ふっとステージを見るとあなたが出て来たままの姿勢で椅子に腰掛けていたわ。その時に気付いたのよ。あなたの重心がとても変なふうに狂っていた、ただ座って居るんじゃないいって言う事にね。とても驚いたわ。あなたはまるで糸の切れたマリオネットのように座っていたんだけど、でもその体は重力に逆らっていた。そう、やっぱりとても力の要るポーズだったのね」
 「そうさ。だってただ座っているだけじゃ、お客さんに申し訳ないだろう?」俺がそう言うと彼女が頷いた。
 「そうよね。それに気付いてから私とてもワクワクしたわ。どんなふうにあなたが動き始めるのか、それともずっとあのまま幕に隠れてしまうのか、そんなことを思っていた。するとあなたは本当に見事に蘇ってみせてくれたのよ。まず一番初めに右腕を振り挙げて、その反動で狂っていた重心を修正したわ。違う、一番初めにはあなたの目に光が宿ったのよ。それから右手が動いたんだわ。そしてとても劇的にあなたは生き返った喜びを全身で表現していたのよ。素晴らしかった。顔の表情も、体の動きも、すべてが輝いていて。心臓がひっくり返るかと思うぐらい感動的だったわ。そしてそれ以上にセクシーだった。でも、あなたは本当はいったい何を見せたかったのかしら?」
 俺は手を叩いてみせた。
 「君の感じたことをすべて表現したかったんだよ。でも、本当は、その喜びの向こうにある悲しみみたいなものが伝わればいいって思っていたけどね」
 「それであなたの瞳が少し悲しそうに見えたのかしら?でも、私は気のせいだと思っていたわ。私自身少しテンションが落ちていたからそんな風に感じたんでしょうね。だってあなたの体は、本当に伸び伸びと動いていたし、表情も嬉々としていた。ただ、動き初める直前の瞳に宿った光が、少し悲しげだっただけ。もしかしたら、生まれるって悲しい事なのかも知れないななんて、勝手に思っていたのよ」
 「カズミは少し悲しい時期の中に居るんじゃないかな。俺はそんな風に思ったよ。一人でライブハウスに来て手を見つめている君を見て、この人はこの手に存在価値を見つけようとしているんじゃないだろうかって、勝手に思ってた。俺には君の手が、君の存在その物の様に思えたんだ。それを君はとても丁寧に確認していた」
 「何故そんな風に思えたのかしら?そんなに私って悲しげだった?」
 「そうじゃない。俺は大体仕事がら、人の悲しみばかり見て居るんだ。言葉の無い世界にいてそれを表現するには、どうしても悲しみが大きなポイントになるんだ。悲しみを理解できないと喜びが表現できない。そんなものなんだ。喜びの表情にはそんなにバリエーションはない。でも、悲しい顔って言うのは物凄く沢山ある。それらを演じ分けるには、それを理解する必要がある。そう俺の先生が言った。でも、それってとっても辛いことだよね。だから、大体俺はいつもコミカルな物をやるんだ。でも、今回は何となく少し新しいものに挑戦してみたかった。もしかしたら俺も、少し辛い時期に差しかかっているのかも知れないな」
 彼女はまた少しの間だけ目を閉じていた。俺はグラスにブランデーを注ぎ足した。それを持って立ち上がり、窓の側へ行く。
 雨はもう小降りになっていた。そして雷も通り過ぎていた。朝には、きっと晴れるだろう。良く晴れた土曜日の朝だ。そしてその次の日、日曜日には俺のホールでのステージがある。巧く行くのだろうか?きっと巧く行く。俺はグラスを口に運びながらそう思っていた。
 彼女が振り向いて言う。「雨上がった?」
 「もう少しだよ。夜が明けるころには完璧だと思う。きっと明日には君のテンションも上がっているよ」俺はそう言い終わって笑って見せた。
 彼女も釣られて笑う。「あなたの笑顔って、本当に幸せな気分になるわ。すごいわね。私もそんな風に笑えるといいな」
 「やめた方がいい、君には君の笑顔が一番良く似合うんだ。それに、そのままで十分幸せそうに笑っているように見えるよ。きっと恋人の前ではもっと素敵に笑ってるさ。でも、確かに悲しい顔も見てもらった方がいいよ。でないと、君の幸せが何時か空回りしてしまう。悲しみのない幸せなんてあり得無いんだ。それも先生の言葉だけどね。先生に習っていた頃は俺もまだ若くって良く解らなかったけど、最近になって何となく解ってきたよ。年をとることもまんざら悪いことじゃないみたいだ。トレーニングをさぼるとすぐに筋肉が硬くなってしまうけどね」
 「あなた三十五って言ってたわよね。マルセルマルソーまでは随分あるんじゃないの?」
 「もちろんだよ。倍ぐらいある。それに、今からあんなに枯れちゃったらあまりにも俺が可愛そうだ」
 彼女が声を立てて笑った。そして言う。「実を言うと私、あなたと同い年よ」
 俺はオーバーに驚いてみせた。
 彼女は笑って手を叩く。「本物のピエロみたいよ」
 俺は立ち上がってしばらくおどけてみせる。彼女は楽しそうにそれを見ていた。俺は一人の女だけの為に踊っていた。ステージとはまた違う、とても親密な感じのするダンス。彼女は素顔のままの心で俺を見ていた。それはとても気持ちの良いものだった。
 一通り踊って、俺は丁寧に彼女に向かって礼をする。彼女はグラスを置いて拍手した。そして俺の空に成ったグラスと自分のグラスにブランデーを注ぎ足した。俺達はそのグラスを持ち上げて、もう一度乾杯をする。
 「素晴らしいあなたのダンスに」彼女が言った。
 「素晴らしい素顔の観客に」俺はそう言ってグラスをぶつけた。
 彼女は一口それを含んで言う。「あなたって本当に人をリラックスさせるのが上手なのね。何だかとっても体が軽くなったみたいよ」
 「それは違うよ。軽くなったのは体じゃない。君の心なんだ。君はもっと心と体の違いを感じるべきだね。そのままで居ると何時かきっと病気になってしまう。君が社長として働いている時のことは知らないけど、でも、何となく判るような気がするんだ。とても張り詰めていて、それが普通の状態になっている。きっと俺みたいなプータローには判らないような疲れが山ほどあるんだと思うよ。でもさ、本当はそんなことどうでもいいことなんじゃないかな。君の命に係わる問題なんて何一つないんだ。多分君にとって一番大切なことは、こんなに豪華なマンションなんかじゃなく、もちろん会社でも、社員でもない。君が見ていたその手で作り出す物なんだと思うよ。違うかな?」
 彼女はテーブルの隅を見つめてゆっくり頷いて言った。「そうかも知れないわね。いいえ、きっとそうよ。でも、やっぱり私には守らなくてはいけないものがある。だって私の為に何人もの人が働いてくれて居るの。その人達の生活ってとっても大切なものよ。私が頑張らなくっちゃいけないのよ。いつも元気で明るくしていなくっちゃ彼らが可愛そう。それに私負けず嫌いなの。ずっと昔からね。誰にも負けたくなかった。でも、今は人に負けることより、自分に負けることの方が嫌」
 さっきまでとはまた違う表情で彼女が言った。それが女社長の顔なのかも知れない。俺はその顔をあまり好きにはなれなかった。
 「ねぇカズミ、俺思うんだけど、君は責任感が強過ぎるんじゃないかな。確かに、今の君の言ったことは正しいんだと思うよ。だけど、それは君本来の姿じゃない。それは社長の姿さ。さっき俺のダンスを見て時の君は社長なんかじゃなかった。もっとピュアーでとても澄んだ目で俺を見ていた。社長の時間が終わったら、本来の自分に戻る努力をしたほうがいいと思うな。いつも元気なカズミでいる必要なんて何も無いんだ。もし、本来の君の姿を見せて去っていくような恋人なら、君にとってはなんの価値も無いって考えた方がいい。もし、俺が君の恋人だったらそんな社長の延長の顔でデートに来たりしたら、うんざりしてしまうだろうな。俺だっていつも踊っているわけじゃない。同じ年の連中より少しは巧く体を動かせるかも知れないけど、それは俺の仕事であって、俺の本質とは全く関係のないことだ。同じように踊っても、ステージで踊るのと君一人の為に踊るのとでは全く違う。君の為に踊るって言うのは、とても個人的なことで親密な感じがした。次の日曜日に大きなホールでのステージがあって、俺はとても不安だったんだ。でも、何だかとても巧く行きそうな気がしてきたよ。多分今まで俺は人の目ばかり気にして踊ってきたんだと思う。今日、いや、もう昨日になったけど、あのステージでの試みがそれだったんだ。でも、本当はそうじゃないって言う事が、何となくだけど判ったよ。俺は俺の中にあるものを表現するべきだったんだ。それがどんなふうに見えようとかまわない。それは受け手の問題だ。俺はただ、自分の思いに忠実に踊る。それだけで良かったんだって思えたんだ。それが出来るようにトレーニングをすればいいだけさ。カズミだってきっとそうなんだ。カズミにはカズミの思いがあって、それが君の作品に成るんだよ。カズミがカズミで無かったら、カズミの作品なんて出来はしないんじゃないかな?」
 「私の作るものは作品なんかじゃないのよ。それは商品なの。誰にも好まれて、利益にならなくちゃいけないの。私の思うものなんて誰も欲しがっていないのよ。それが会社をやるって言う事なの」彼女は強く、吐き捨てるような感じでそう言った。彼女がその事に不満を持っているのが判った。
 「君は初めからそう思って会社を始めたのかい?」
 「いいえ。始めはあなたが言ったように自分の作品が作りたかっただけよ。自分の心の中の物を形にしたかったの。それをするためには自分の会社が必要だった。でも、それが今一番辛いことなのかも知れないわね。今まで、そのことを考えるのを無意識のうちに避けてきたのよ。だって、それを考えちゃうとどこへも行けなく成るんですもの。それをあなたがほりおこしちゃった。何故なの?」
 俺は出来るだけ優しい顔を作って、ゆっくりと言う。「多分、君のことが好きになったからだと思うよ」
 彼女は驚いた感じでいった。「好きになった?良く判らないわ」そう言って首を横に振る。
 「君には君でさえ知らない魅力がとっても沢山あるんだ。俺はそれを見つけた。まだ、誰の手垢も付いていない、君でさえ知らない君の魅力。社長なんて言う顔でそれを覆い隠しているのがもったいなくってね。俺だったら君のそのピュアーな感性を伸ばしたいって思うよ。少なくとも、俺の前にいる時ぐらいは澄んだ目で俺を見ていてもらいたいって思うな」
 「良く判らないわ」彼女はもう一度首を横に振りながら言った。
 「じゃあ、カズミも俺のことを好きになってみないか?そうすればきっと判るさ」
 彼女の表情がとても幼い感じに変わった。「好きになるって、愛するって言う事?」
 「どうだろう?愛にもいろいろあるからね。そんなに難しいことじゃなくってさ、ただ好きになればいいんだよ。嫌いじゃないより少しだけ好きの方によっていればそれでいい。そうすれば君は俺の中に素晴らしいものを見ることが出来るんだ。素晴らしいものって言うのは、ただ漠然と生きていると見逃してしまうものばかりなんだよ。誰かを好きになるって言うのはそれを見逃さないで済むって言う事なんだ」
 「何だか難しいけど、楽しそうなことね」
 彼女は社長の仮面を脱ぎ捨ててそう言った。まるで振り子のようにゆらゆら揺れる。俺はそんな彼女の揺れを楽しんでいた。
 「カズミは俺のことが好きだ。そう言ってごらん」
 彼女が真っ直ぐに俺の目を見て言う。「私はあなたが好き」
 そう言われて何故か俺の方が照れてしまった。
 「あなた、赤くなったわよ」彼女が笑いながらそう言った。
 俺はブランデーを一口含んで息を整えて言う。「どう?少し気分が変わった?」
 彼女は目を上に上げて右と左に動かす。そして言った。「そうね。何だか気分が軽くなったみたいよ。それに本当にあなたの事が少し好きな感じがするわ」
 「ほらね。そんな物なんだよ」
 彼女が言う。「じゃあ、あなたも言って」
 俺は照れ臭くて、彼女のようにまともに顔を見ながらは言えなかった。それで、窓の外に目をやった。
 雨が上がって、雲の切れ間に三日月の半分だけが見えていた。
 「雨が上がったよ。月も出てる」
 俺がそう言うと彼女が窓の方を振り返った。そのタイミングを見計らって言う。
 「俺はカズミが好きだ」
 彼女は少しの間窓の外を見て、向き直って言った。「あなたって、本当にタイミングを計るのが上手なのね。それにとてもストレートに物を言うくせに照れ屋だわ。でも、そんなところが素敵なのかも知れないわね」
 俺は笑ってみせる。
 「それに、とっても素敵に笑う」彼女がそう続けた。
 俺が言う。「たまにデートしよう。もっと沢山良いところが見付かるかも知れない。もちろん、君の恋人がやきもちを妬かなければの話だけど」
 彼女も微笑んで見せると言った。「きっと平気よ。彼はそう言うタイプじゃないもの。彼の方が私よりもっと現実主義者で、仕事好きなんだから。あなたの事を話したら、きっと『良いボーイフレンドが出来て良かった』って言うわ」
 俺には良く判らなかった。
 「どう言う気持ちなんだろう?愛されていないのか、それとも信用されているだけなんだろうか?」
 彼女はフッと寂しそうに笑って言った。「さぁ、どっちかしら?でも、こんな恋人同志って言うのもあるものなのよ。でも、それに対して今まで不満を持ったことなんてなかったわ」
 「俺には出来ないな。そんなに人間が大きくない。俺は、俺の恋人には、俺だけを見ていて欲しいんだ」
 「そのくせ、あなたは彼女以外の女の人を、同じように愛してしまったりするんでしょう?」
 「そうじゃ無いと思うよ。どんな女の人も、それなりに素晴らしいところがあって、その部分が好きなだけなんだ。みんなが同じわけじゃない」
 「私には随分勝手に聞こえるわね。つまり、あなたはいろんな人の事がいろんな風に好きになるのに彼女には自分だけを見ていて欲しいんでしょう?男にだっていろんな良いところがあるのよ。それを女だって好きになりたいわ」
 「確かにそう言われればそうなんだけど、感情と理性はまるで別んんだ。俺は自分勝手の我侭者でも構わないから自分の感情に正直に生きたいんだ」
 「本当に訳の判らない人ね」
 「カズミ。君だってそうして生きた方がいいよ。頭で理解することと、心が欲するものは違うんだ。頭で理解することは、ある程度誰もが同じ答えを導き出せるけど、心が欲するものはその心の持ち主だけのものだからね。そしてそれが誰かの心と共鳴したときには、それはとても心の奥深く、その人の根本に係わる部分での共鳴なんだ。多分、君の言う商品を作るのには必要ないものなのかも知れないけど、君の作るものが作品を呼ばれるものになるときにはとても大切なことだと思う。こんなことカズミには判っているよね。でもそんな風に生きられない事情があるだけだろうね」
 「ねぇ、ケンジはなぜそんな風に人と違うものを求めているの?」
 「そうだね。それが自分の存在理由みたいなものだからじゃないかな」
 「存在理由?」
 「そうさ。俺には俺にしか出来ないものがきっとあるって思う。だから、その俺だけを愛してくれる人も欲しいって思うんだよ」
 「本当に勝手だわね。でも、少しだけ素敵かも知れない。そんな風に生きるって、辛いことみたいな気がするけど」
 「かも知れないね。でも俺は、カズミみたいに大人にならなくても生きて行けるからね。守るものもないし養うべき家族も居ない。誰かが俺のダンスを見て気に入ってくれればいいんだ。カズミは何万円もする蘭の花かも知れないけど、俺は道端に咲く雑草でいいさ。花には違いない」
 「何だか私、自分のことが嫌いになってきたわ。あなたと話していると自分の価値観みたいなものが間違っているような気がする。こんなことって初めてよ」
 「そうかい?でも俺はカズミみたいな生き方を尊敬しているよ。だって間違っても俺には出来ない生き方だからね。自分以外の生活まで守って、その上自分の安らぎまでパワーに変えてしまう。誰もが望んでいるのになかなか出来ない生き方なんじゃないかな?」
 「そうかしら?蘭の花には蘭のなりの苦労があるのよ」
 「それはそうだろう?でも、間違いなく蘭の方が価値がある」
 「でも、必要のない人には全く価値がないわ。もしかしたら、花屋の片隅で売れ残って、誰にも愛されずに枯れてしまうかも知れない」
 「雑草はもしかしたら誰か、そう、散歩にでも来た人に見て貰えるかも知れないだけだ。鑑賞される確率は蘭が売れ残るより少ないさ」
 「でも、雑草は自分の根で生きているわ。でも蘭の花は沢山の人の手を必要とするのよ。何だかやっぱり辛いわね」
 「どっちにしても辛いんだよ」
 「そうかも知れないわね。でも私、ケンジのこと好きよ」
 「俺もカズミが好きだ」
 「どんなふうに?」
 「そうだな。一生懸命生きている感じがする。でも、俺から見ると、少し可愛そうにも思えるけどね」
 「そう、かわいそうか。そんな風に言われたのって初めてだわ」
 「カズミは俺のどんなところが好きだって思える?」
 「セクシーな所よ」
 「ワオー、それは素晴らしい。最高の誉め言葉だね。雑草なりの花をめでてくれたんだ」
 「そうね。あなたってとってもセクシーよ。勝手気ままに生きているようなのに、人の心をとても敏感に感じる事が出来るわ。誰もが見て見ぬ振りをしてやり過ごしてしまうところを大切にしているのね。そういうナイーブな所があってこそのセクシーなのよ。ただ肉体的にセクシーなだけだと、それは動物的なだけでちっとも魅力的じゃない。でも、あなたの場合はなんかちょっと違うのよ。精神的にもセクシーなのかしら?」
 「とても難しい言い方だね。でも、それだけ誉めてくれたんだから、俺と寝てみない?」
 「そうね。それもいいかも知れないわね。でも、私はあなたのことだけを見て暮らすことなんて出来ないわよ。そう言う関係になることで、面倒なことになったりするのって嫌だわ」
 「多分大丈夫だと思うよ。そんなに若くないから、何もかも欲しくなったりしないと思うよ」
 「じゃあ、なぜ私と寝ようと思うの?」
 「そうだね。この手でカズミを抱きしめてみたら、どんな感じがするんだろうって思うんだ。蘭の花の手触りってどんなだろうって感じかな?」
 「純粋に興味があるのね?」
 「多分ね」
 「だったら寝てもいいわよ。私もあなたのそのしなやかな体に純粋に興味があるわ」
 「決まりだね。でも、もう少しロマンチックな口説き方もあっただろうな」
 「ちょっと後悔してる?」
 「ちょっとじゃないよ。随分後悔してる」
 「後悔することなんてないわ。多分、あなたがどなふうに口説いたとしても、相手が私であるかぎりロマンチックにはならなかったんじゃないかしら?」
 「そうかな?」
 「きっとそうよ。私って何だかそう言うのがとっても苦手なのよ。セクシーとまるっきり反対のところで生きているから」

 その後俺達は結局、同じベッドに入った。カズミは、自分で言ってたよりもずっとセクシーで、驚いたことに本当に蘭の手触りがした。金を掛けて磨き上げられた体なのだろう。上等の女を抱いた気がした。


 良く晴れた次の日、彼女の作った朝食を食べて彼女の家を出た。その時彼女が言った。
 「また、寂しくなったら電話するわ」
 俺はそれに微笑みで返した。そして言う。「愛してるよ」
 彼女も言った。「私もよ」


 大人の恋ってこんなものなのだろうか?いつも子供っぽい恋愛しかしていない俺にはよく判らなかった。しかし上等の酒は次の日迄残らない。そしてそれで溺れることもない。あくまでも心地好く、そしてさわやかな酔い心地だ。また何時かこんな俺でも上等の女にあり付けることがあるだろうか?きっとまた彼女は電話を掛けてくる。俺はそう思いながら駅へ向かって歩いた。




 次に彼女から電話があったのは、やっぱり雨の降る、季節の変わり目の夜だった。
 「ケンジ。まだ愛してる?あなたのダンスが見たいの」そう、留守番電話に彼女の声があった。俺はタクシーを飛ばして彼女の家に向かう。彼女は素顔のまま俺を迎えてくれた。
 「愛してるわ」彼女が言う。俺はまた蘭の花を抱きしめた。初めての時より少し親密な感じがした。



 あれから五年。一年に何度か、決まって季節の変わり目で雨の日に、彼女は電話を掛けてくる。そして会う度に親密な感じが深まった。
 俺達は会っている時だけ愛し合った。小さな声で語り合い、俺は彼女だけのために踊った。彼女はただ心の力を抜いて、俺にすべてをを預けているようだった。まるで少女のように澄んだ瞳で俺を見つめた。俺はその瞳に吸い込まれるように踊った。そのダンスは俺の中にある思いそのものだった。自分でも気付かなかった自分の思いに驚くことが度々あった。俺のダンスに彼女の存在は大きく影響を与えていた。何より俺はその時の彼女を愛していた。しかし、離れてしまうと全くお互いの存在はゼロになってしまう。それもお互いにとって、とても都合の良い事だったのかも知れない。
 俺の方から電話を掛けることはない。たまに大きなステージをやる時には案内状を出すだけだ。彼女は時間があればそれを見に来てくれる。一度恋人を連れて来たことがあった。しかしとても不思議なことに俺はその男に対してジェラシーを感じはしなかった。その男は女社長としてカズミに、とても良く似合っていた。普通に見るならば、俺などとは全く違う、誰もが立派な人だと評するタイプの男だった。高価な背広を何気なく着こなし、良く磨き込まれた靴を履いていた。その上カジュアルな会話まで嫌味無くこなす。カズミはそんな男の隣で、気負うでもなく、媚るのでもなく、自分をちゃんと表現していた。極上の男と極上の女のカップルだ。しかしその極上の女は俺と居るカズミとは全く別人だった。
 俺は俺でちゃんと恋をしていた。俺に似合った女と俺のペースで恋愛を楽しんでいた。その恋はどこかへ繋がっているものだったかも知れない。しかし俺はその繋がっているものを、いつも断ち切ろうとしていた。その為に、恋人は何度か変わった。それを俺は、それが俺の人生なのだと受け入れていた。
 俺とカズミはとても不思議な関係になっていた。もちろん遊びではない。しかしその恋はどこへも繋がっていない。そしてそのことに対してなんの不安も、焦りも感じていなかった。彼女は俺を、幼い顔を見せることの出来る相手として選んだのだろう。きっと特別なオアシスとしてその時点だけ、確かに愛しているのだ。利用されていると言う思いは無い。何故なら彼女は、俺といる時には、本当にピュアーに俺を愛してくれるからだ。
 カズミは今年四十歳になったにもかかわらず、誰とも結婚を望んではいなかった。俺ももう結婚は沢山だった。何もかもをワクの中に押し込めた生活、それは俺にとって精神的な檻でしかなかった。何も捕らわれず、ただ自分の思いを表現したいと思っている。この世の中の片隅で、ただひっそりと踊るダンサー。それが俺の唯一の望みだった。
 彼女は俺に何も求めてはいなかった。多分彼女は求めるものをすべて手に入れていたのだろう。いや、何かを求めていたとしても、それは彼女自身の力で手に入れるに決まっている。彼女はそれが出来る女だ。俺に与えられるものなど何もない。ただ、俺は彼女から電話があれば、出来るだけ時間を作って彼女に会いに行き、彼女のその時だけの愛を受け止めればいいだけだ。それは俺にとっても、心地好いものであった。恋なのかどうかは判らない。ただ会っている時にだけ存在する恋なのかも知れない。もしかしたらあれは夢なのかも知れない。年に何度か見る、とても楽しい夢。そして目覚めればいつもそれが夢だと言うことを理解している。だから先を求めないのだ。


 最後に会ってからもう四ヶ月。きっと近いうちにまた彼女から電話が掛かってくるだろう。
 季節はもうすぐ夏。そしてその前には必ず雨が降る。