ステージ U 『ジュンコ』
 大きなステージでのリサイタルを終えた夜の事だった。それは、俺にとって何度目かのリサイタルではあったが、特別な意味を持つものだった。
 二日前の夜、特別な女と出逢い、特別な夜を過ごし、新しい何かを掴みかけていたステージ。そして、そのステージがその後の俺の方向を決めた。
 そんな特別なステージを終えた俺は、沢山の仲間と打ち上げをし、早い時間から随分の酒を飲んでいた。ステージでの緊張の余韻からか、俺はほとんど酔いはしなかった。しかし、仲間達はしたたかに呑み、酔い潰れる寸前という有様だった。その連中を順番にタクシーに乗せ、俺一人が夜の街に残った。誰も待つ者の居ない部屋に戻るには、酔いが足らなかった。
 薄いTシャツにデニムのジャケットを肩に掛けただけで丁度良い気温。俺は二日前の雷を思い出しながら空を見上げた。そこのはほんの少し、申し訳程度の星が見えた。
 一人になった俺は繁華街を免れ、裏道を歩く。遠い記憶では確かその先には公園があったはずだ。体がとても軽かった。二時間近くもステージを勤めた後だというのに、後二時間も踊れそうな気がするほどだ。きっと未だテンションが上がったままなのだ。俺は道端の自動販売機でビールを買い、公園へ向かった。

 昔、未だ高校生だった頃、その時付き合っていた彼女と行った公園。繁華街を二人でうろついた後に何度かこの辺りまで歩いた。
 付き合い初めた頃俺達のデートは、ただ街を目的もなく歩くことがほとんどだった。その後、背伸びしたい年頃の俺達はホテルで寝ることを覚えた。
 俺はバイトをして小遣いを貯め、彼女を誘った。初めのうち彼女は、好奇心からかセックスに対して興味を見せた。しかし、その好奇心が満足すると、俺が体を求めることに疑問を持ち始めた。そして俺に言った。「体が目的で私と付き合っているの?」
 俺はその時確かこう答えた。「セックスは愛の潤滑油なんだよ」
 あいつは、ただ黙ってうつ向き、首を振った。
 俺は確かに彼女の体を求めていた。そういう年頃なのだ。終わった後無性に空しくなるくせに、またすぐにしたくなる。彼女はそんな俺をどう思っていたのだろう?
 寂しい女だった。何故か、高校生の彼女の印象が俺には寂しいとしか残っていない。人生で一番楽しい時期のはずなのに、あいつはいつも寂しげな目で俺を見上げ、俺の求めに応じた。きっと拒むことで、そんな俺でも失うのが怖かったのだろう。

 角を曲がると、ブランコもスベリ台も新しいものと変わってしまってはいるが、二十年近く前と同じ場所にその公園はあった。
 三本の街灯が、芽吹いたばかりの木の葉の影から公園を照らしている。
 俺はブランコに腰を掛け、ビールのプルリングを引く。プシュッという音を立てて、小さな穴から泡が吹き出してくる。俺はその泡を吹き飛ばしてから、ビールを口に運んだ。ほろ苦さが拡がった。きっとそれはビールのせいではなく、思い出していたことのせいだろう。今の俺ならあの娘に、あんな目をさせずにすんだかも知れない。あんなに寂しい目を。
 「一人で生きるには 一人で生きるには 寂しすぎるこの街で 君に会ったよ恋人さん」
 あの子が良く唄った歌、ディランUの「寂しがりや」だ。本当に彼女の心そのままのような唄だった。彼女はいつも、聞いているのが辛いような歌ばかりを唄った。
 そう言えば、よく夜中に家を抜け出して公園に行った。あの娘は誰もいない公園が好きだった。街灯に照らしだされた、夢の空間。あれが今俺がいるステージの原点なのかも知れない。取り留めのない記憶が次々と蘇る。

 あの娘が俺のを好きなのは判っていたが、まだただの友達関係だった頃、俺の友人が死んだ。自殺。一人で住んでいたアパートの押し入れにガスのホースを引き込み、それをくわえて死んだのだ。とても寂しがり屋だったのに、なぜあいつは一人であんなことをしたんだろうか?多分、寂しいということに疲れたのだろう。教室を出る時に言った。「じゃあな」それが俺が最後に聞いた言葉だった。そして奴の死を知ったのは、次の日の夕方だった。
 バイクで奴の通夜に出、その足で俺は慶子の友達のアパートに転がり込んだんだ。そう確かあの娘は慶子って言う名前だった。そしてその友達は真理って言ったっけ。
 真理は家庭の事情で三畳一間のアパートを借りて一人住まいをしていた。親の目の届かない環境がとても楽しくて、そこが俺達の溜まり場になっていた。
 あの日俺は友人の自殺という衝撃を持て余していた。何も出来なかった自分がやり切れなかった。そして、俺は現実から逃げた。
 真理は、突然行った俺を何も知らずに部屋に迎え入れ、いつもの様にしゃべっていた。しかし、夜が更けるに従って俺の感情は段々不安定になっていった。突然涙が後から後から溢れだした。
 「聡が死んだ。自殺したんだ」俺にはそれだけしか言葉にすることが出来なかった。真理は、ただ黙って抱きしめてくれた。俺は、気の済むまで真理の胸で泣き、そして真理と寝た。
 慶子はそれを知っていた。とても感の鋭い娘だったんだ。聡が自殺したことを知って、俺をとても心配していた。
 夜が明けるとすぐに、真理の部屋がノックされた。
 「コン コン」
 とても静かなノックだったのにも拘わらず、その音は眠り込んだばかりの俺と真理を起こすのには十分な響きを持っていた。
 真理が「はいっ」と小さく答えた。
 「慶子です」とても静かな彼女の声がそう言った。
 「ちょっと待って」真理はそう言って板一枚のドアのこちら側で下着を付け、トレーナーを被り、ジーンズに足を通した。
 きっとドアの向こう側で慶子はその音を聞いていたのだろう。俺は取り敢えずジーンズだけ履いた。
 慶子は信じられないほど穏やかな微笑みを浮かべ、部屋に入って来た。そして上半身裸の俺に言った。「良かった。生きてて」
 俺はただそれに頷いた。
 真理がコンロでお湯を沸かす。慶子は煙草に火を付けて吸い込み、静かにそれを吐き出した。
 「聡が自殺したって聞いて、ケンジもそうするんじゃないかって心配で眠れなかったの。それで夜が明けるのを待ってチャリを飛ばして来ちゃた。三回ぐらい曲がり損ねてぶつかったんだよ」そう言って笑ってみせた。
 そんな思いをしてここに着いたら、俺のバイクが止めてあった。慶子はどんなふうに思ったのだろう?そしてどんな思いでノックしたのだろう?そして扉の外で何を思いながら真理の服を着る音を聞いたのだろう?俺は慶子に対して何をしたのだろう?そして真理に対しても。そのころの俺には何も判らなかった。

 俺はブランコを揺すりながらビールを呑む。そして、慶子の好きだった歌を口ずさむ。これもやはりディランUの唄っていた「風景」と言う唄だ。
 「僕が よぼよぼの 爺さんに なったならば 僕は 君を連れ この街を 出るんだ」
 いろんな事がその後あった。俺は確かに慶子の心と体を傷つけた。そして身勝手にも俺が別れ話を持ち出した時、その頃ベースをやっていた俺に慶子はこう言った。「何時か春一に出てね。そして二十歳になったらもう一度会いましょう」
 遠い昔のお伽話。

 周りに建つマンションの灯が幾つか消えた。みんなもう寝る時間だ。時計を見ると十一時を回ったところだった。俺は半分残ったビールを一気に飲み干すと、その缶を潰してゴミ箱に向かって放り投げた。
 「ストライク!」後ろで知らない女の声がした。
 俺は驚いて振り向く。そこには髪をショートカットにし、白いシャツにジーンズ姿の女性が立っていた。彼女は手にビールを二本持って笑っていた。
 その一本を俺に投げてよこすと言った。「もう一本どう?」
 俺はそれを片手で受け取って微笑んでみせる。
 彼女が言う。「隣のブランコ、空いてる?」
 「空いてるよ」俺がそう答えると、その女は一つ飛ばした隣のブランコに腰掛けて、プルリングを引いた。
 俺もビールをあけて言う。「御馳走になります」
 彼女は自分の缶を少し持ち上げて笑顔を見せた。そして白い咽を見せてそれを呑む。俺も同じようにそれを呑んだ。
 彼女がブランコを揺すりながら言った。「随分古い歌を唄ってたわね」
 俺もブランコを漕いで言う。「知ってるって言う事は、同世代だね」
 キーキーとブランコの軋む音がした。
 彼女はブランコを飛び降りると、俺の前の柵に腰掛けて言った。「きっとね。あの頃青春を送ったら、今の甘っちょろい歌なんて唄えないわ」
 「確かに。エキサイティングな時代だったからね」
 前から見たその女は、俺より少し若く見えた。女の年は判らない。
 俺はビールを差し出して尋ねる。「わざわざ俺のためにこれを買って来てくれたの?」
 彼女が笑って答えた。「まさか。自分で呑むつもりだったのよ。でも、ここを通り掛かったらあなたが随分懐かしい歌を唄ってたから。ちょっと嬉しかったのよ」
 「嬉しいって?」
 「だって、あんな唄って今はダーレも知らないわ。カラオケにだって絶対入ってないし。でも、青春その物なのよね」
 俺はそれに対して頷いて見せる。「青春か。ホントだよね。実はさっきの唄、昔々の彼女が好きだったんだ。何となくそれを思い出してね」
 「随分寂しい人だったのね」女は手に持った缶を見つめてそう言った。
 「俺も今そう思ってたんだ。一番楽しい筈の高校生の頃に、あんな歌を唄ってたんだなってね」
 「後悔してるんでしょう?」女がそう言った。俺は首を傾げてみせる。
 女が尋ねる。「あなた、何してる人なの?」
 「ダンサー」
 「どう言うタイプの?」
 「創作ダンスだとか、パントマイムだとか。ステージを終えてきたところだよ」
 「すごいのね。それで普通の人と表情が少し違うんだ。でも、そんな人が何故こんな所でビールを飲んで歌ってたのかしら?」
 「誰もいない部屋に帰るには少しテンションが上がり過ぎてたから」
 「きっとステージ、巧く行ったのね」
 「ああ、大成功だったよ」
 俺は手に持ったビールを飲み干して、またゴミ箱に向かって投げる。今度は少し右に逸れた。
 「アウト!」彼女が言った。そして自分も残りを飲み干すと、狙いを定めて投げた。カランと言う音と共に狙い通り入った。
 「ナイスイン」今度は俺がそう言った。彼女は腕を挙げてガッツポーズを決めた。そして立ち上がると言った。「さぁ 帰ろう」
 俺も立ち上がって言う。「ビール ありがとう。君の分が一本へったね」
 「もう一本買って帰るわ」
 「多分、もう自動販売機は止まってるよ」
 「あらっ 十一時過ぎたのね。じゃあ、さっき買ったのがギリギリだったんだ」
 「そうだよ。悪い事しちゃったね」
 「気にしなくていいわよ。私があげたんだから。あなたが無理やりに取ったわけじゃないわ。部屋に戻ればウイスキーならあるし、気にしないで」
 「そう。本当にありがとう」
 「じゃあね」
 彼女はそう言って公園を横切って行った。
 
 俺はその後ろ姿を見送りながら思った。「後悔してるのか」
 そうかも知れないと思った。確かに俺はあの時慶子を傷つけた。今の俺なら慶子が何を望んでいたのかが判る。そしてそれを与えることも出来るだろう。でも、あの頃俺はまだ十八才だったのだ。
 『装流』あの頃慶子はこんな名前で詩を書いていた。魂を装いさまようという意味だと言って。確かにあいつはいつも孤独を装い、愛を探してさまよっていた。与えられても、奪っても、決して充たされることのない孤独をいつも装い、それを脱ぎ捨てる術を忘れてしまっていたのだ。それごと抱きしめてやれば良かった。どんなものを身に付けていようとそれを装っているのは慶子自身だったのだから。
 三十五才の今ならそれが判る。俺はいつも判るのが遅すぎる。それにしてもこれは余りにも遅すぎた。今の彼女が幸せな目をしていればいいと心から思った。いい男と結婚して、愛情深い母親になっていればと。勝手な思いだ。自分の身勝手さに情けなくなった。しかし、今の俺には、そうすることぐらいしか出来ない。
 「まぁ いいか」俺はそう声に出して自分を納得させた。

 公園を出て大通りまで歩く。そこでタクシーを止めて部屋へ帰った。

 バスタブに湯を貯め、留守電を聞く。用件は三件入っていた。一件目は、昔の友人がステージの感想を入れてくれていた。その次は、ライブハウスのオーナーからだ。また明日にでも電話をくれと入っていた。そして最後の一つは、一年前に別れた女からだった。
 「ジュンコです。今日のステージとても良かったわ。力が抜けてて・・・随分大人になったのね。眠れなかったら電話、頂戴」そう言って切れていた。

 俺はバスルームへ行って丁度いい量になったお湯を止め、服を脱いで体をバスタブに沈める。手足の筋肉を伸ばし、軽くマッサージをする。随分疲れていた。体の緊張の糸が音を立てて切れ、鉛のように重くなった。それで当たり前だ。とても激しいステージを終えたのだから。ゆっくりのテンポを保つために、極限まで筋肉を使った。今まで何ともなく動いていた方がおかしいぐらいだ。
 重い体を引きずるようにしてバスタブを出て、バスタオルで体を拭きながら、キッチンへ出る。
 冷蔵庫を開け、冷たいミネラルウォーターを飲む。その後、グラスにブランデーを一杯注いでそれを持ってベッドルームへ行った。

 サイドテーブルにグラスを置き、灯りを消してベッドに潜り込む。目を閉じて眠ろうとしたが、頭の中に昼間のステージをリピートされる。巧く行かなかったところ、巧く行ったところ、後悔と恥ずかしさが次々に沸き上がる。神経のテンションが落ちていない。鉛のように重い体で寝返りを何度打っても、頭が眠ることを忘れたように次々と新しいビジョンを映しだす。
 俺は重い腕を伸ばしてサイドテーブルに置いたブランデーを取り、口に含む。いつもそうだ。大きなステージの後は必ずこうなる。神経を沈めるにはブランデーが一番良い事を経験的に知っている。
 グラス半分のブランデーを呑み、もう一度眠ることにトライする。しかし、頭の中のテンションは落ちない。俺はもう一度グラスを取って、残りを飲み干す。そして、ベッドサイドの電話を取って、ジュンコに電話を繋いだ。
 「もしもし 俺 ケンジ」
 「やっぱり眠れないのね」電話の向こうで懐かしい声がそう言った。
 「何か用だったの?」
 「いいえ。きっと今夜は眠れないだろうなって思って電話したの。そのぐらい素晴らしかったから」静かな声だった。
 俺が言う。「今何時?」
 「一時半」
 「明日は仕事だろう?」
 「ええ、そうよ。でも、今日は昼近くまで寝てたから大丈夫。心配いらないわ」
 「ステージ観てくれたんだね」
 「ええ。情報誌であなたのステージを知ったの。それで何となく、どうしてるかなって思って。良かったわよ。とっても」
 「ありがとう。少しは成長してたかい?」
 「そうね。成長って言う感じじゃなかったわね。どっちかと言うとあなたの本当の姿が垣間見えたって言う感じかしら?」
 「俺の本当の姿って?」
 「そうね。シンプルに成りつつあるって言うのが良く判るわ。今まで突っ張ってた分部が少し薄まっていて、何となくだけど、少し楽に成りつつあるんじゃないかって」
 「肉体的には結構辛かったんだぜ。今この受話器を持ってるのも辛いぐらいだ」
 「そうでしょうね。とても力が入っていたもの。あなたの筋肉の悲鳴が聞こえそうだったわ。でも、頭が冴えて眠れないんでしょう。いいステージの後は決まってそう。辛いのよね」
 「覚えてたのか。そういえば随分迷惑を掛けたもんな」
 「ええ、随分ね。でも今夜は許してあげる。とても素晴らしいステージを観せてもらったから。眠るまで話しているといいわ。あなたが喋らなくなったら私も電話を切って寝るから」
 「ありがたい。いつものブランデーもなかなか効かなくってね。明日にでも電話すればいいやって思ってたんだけど、誰かと話せば眠れそうな気がしたから」
 「良かったのよ。私はそのつもりで電話してたんだし、明日に電話をもらっても話す事なんてなかったもの。ステージの感想は留守電に入れちゃったし」
 「ところでジュンコ、今どうしてるんだい?」
 「どうしてるって?」
 「結婚とか恋愛とか、そう言うの」
 「結婚はしなかったわ。あの時あなたと別れたら、向こうの方も魅力を感じなくなっちゃって、それで三ヶ月くらいして別れちゃった」
 「そう。何か色々大変だったからね。でも俺はきっと結婚してるって思ってたよ。だってジュンコはとても家庭を欲しがってたし、幸二君って言ったっけ、彼もそれを望んでたからね」
 「そうね。風の噂では、幸二の方はもうじき結婚するらしいわよ。彼にはとっても良いことだと思うわ。でも、私はダメ。逃げる人がいなくなったら、逃げ場所もいらなくなったって言う感じかもしれないわね」
 「俺から逃げたかったんだ」
 「ええそうよ。だってあなたはいつも非現実の中で生きているんですもの。女にとっては辛いことだったのよ」
 「確かに。でも、俺は俺でしかないから仕方ない」
 「あの時もあなたはそう言ったわ」
 「でも、ジュンコのこと好きだったんだぜ」
 「知ってるわ。でも、一番じゃなかった。あなたはいつも自分が一番で、その後に何人かの女性を愛していたのよ」
 「そうかもしれない。でも、ジュンコを愛していたことは嘘じゃない」
 「でも、他に愛している人がいた。そう言うのって耐えられなかったの」
 「そうだな。でも、これだけは信じてくれ。俺は誰も比べたりしたことなんて一度もなかった。でも人もみんなそれなりに愛していたんだ」
 「勝手な人。でも、それなりっていい言葉ね。今私もそれなりに生きて居るもの」
 「幸せかい?」
 「それなりにね。あなたの方は幸せなの?」
 「それなりにではあるけどね」
 「誰とも一緒に住んでいないのね」
 「ああ。ジュンコが出ていってから女と住むのは止めたんだ」
 「どうして?」
 「何だか結構堪えたんだよ。それまで当たり前のように傍に居た人が居なくなるって言うのに。物理的な寂しさみたいなものがあってね。それで恋は外ですることにした」
 「でも、私だってずっと一緒に住んだわけじゃなかったのに」
 「でも居て欲しい時には居てくれただろう?今日みたいにステージの後だとか、調子の悪い時だとかって」
 「そうね。私って便利屋だったのね」
 「そうじゃない。ジュンコはとても俺の気持ちを読むのが巧かった」
 「でもあなたは私の気持ちが判らなかった。いいえ、違うわ。あなたにも判ってた。でもあなたはあなたのしたいようにしか出来なかったのよね」
 「そうかも知れない。ジュンコには何でもお見通しか」
 「そうよ。それで他の彼女が居ることもバレちゃった」
 「そうだったな。でも、ジュンコはもっと取り乱して怒るかって思ってたよ。でも、君は平気な顔をして『さようなら』って言ったんだ」
 「あの時、私が取り乱して泣き喚いて『他の女と別れて』って言ったら、あなたは別れた?」
 「さぁどうだろう?でも、そんなジュンコって想像出来ないな」
 「だからあんなふうにしたのよ。あなたが他に好きな人が居るって言うのに気付いて落ち込んでいた時、幸二がとても優しくしてくれたの。彼はいつも私だけを見ていてくれたし、私の為だけを考えてくれた。彼と一緒になったらきっと幸せに成れるって思った。穏やかな人生を送らせて貰えるってね。でも、あなたにさよならって言って、一人になってからゆっくり考えたら、幸せって自分で掴むべきものだって気付いたのよ。人に与えられた幸せで私が満足できるって思えなかった」
 「かも知れない」
 「そうなの。それで思ったの。本当にあなたが欲しかったのなら、どんな事をしてでも手に入れるべきだったってね。自分の幸せを自分の手で掴めば良かったんだって。でも、私はそうしなかった。つまり、そこまであなたのことを欲しくはなかったって言う事ね」
 「それで、どうしても欲しいものに出逢った?」
 「そうね。まだ出逢ってないわ。でも、きっと何時か出逢うと思うの。人だけじゃなくって仕事かも知れないし、もっと他のものかも知れないけど、きっとがむしゃらに欲しくなる時がくるって思えるわ」
 「そうだね。きっと見付かるさ。俺だって

 朝日が顔に当たって一度目覚めた。六時だった。枕元に受話器が転がっている。俺はそれを静かに元に戻して起き上がる。サイドテーブルの上のグラスを持ってキッチンへ行きそれを流しに置いてからトイレで用を足す。そして、水を一杯飲んでベッドに戻り、窓のブラインドを下ろしてもう一度寝直した。

 次に目覚めた時、時計の針は十時を指していた。
 ベッドの上で軽くストレッチをし、筋肉の状態を調べる。疲れは残っているが、起きられないという程でもない。俺は静かに起き上がり、頭を一振りする。夕べの酒は残っていない。
 ゆっくりとシャワーを浴び、ジュンコとの会話を思い出す。その記憶は中途半端なところでプッツリと切れていた。「申し訳ないことをした」俺はそうつぶやいて歯ブラシをくわえた。鏡に写った俺の顔は、結構スッキリとしていた。
 丁寧にはを磨き、濡れた髪をタオルで拭い、バスルームを出る。ラジオのスイッチを入れ、キッチンでコーヒーをたて、トーストを焼く。俺の青春時代に聞いたものとは、全く異質な音楽が流れる。昨夜、公園で出逢った女のイメージだけが蘇った。「久しぶりに聞けて、嬉しかった」とあの女は言った。しっかりと自分の人生を自分の足で歩いている女性だ。夕べジュンコが俺に語ったものもそう言う事だ。誰もが自分の足で歩き始めている。俺もまた、この少し疲れた足で歩くしかないということだろう。
 コーヒーとトーストで、朝食を取る。体調は良いようだ。ちゃんとトーストはトーストの、コーヒーはコーヒーの味がした。
 食べ終わって、ラジオから流れる軽快な曲に合わせて体を動かす。昨夜の疲れを少しづつ解きほぐすために、軽いステップを踏み、体を揺さぶる。
 三十分程そうして体を動かしてから、身支度を整えた。その後昨夜の留守電にメッセージの有ったライブハウスのオーナーの田中に電話をする。彼はあいにく出かけていて、夕方に戻るとのことだたった。俺は静かに電話を切り、久しぶりに車で出かけることにした。

 外に出てみると空は少しだけ曇っていた。気温は暑くも寒くもない。俺は久しぶりに車の屋根を折り畳み、オープンにしてからエンジンを駆ける。軽快な音を立ててエンジンが回り始めた。
 俺はサングラスをかけ、静かに駐車場をすべりだした。

 月曜日、仕事のための車が沢山走っていた。俺は髪に風を受けながら街中を走り抜け、高速道路へ出る。
 灰色の曲がりくねった道をトラックをよけながら行く。空の灰色と回りに見える街の色調がほとんど違わない。その中を走るこの車は、雲の切れ間から覗く青空のようなスカイブルー。空にしては小さすぎるが、この車を買うのを決めたのはそのブルーがまるでエーゲ海の海と空の色のようだと思ったからだ。しかし、ビジネスに忙しい奴等にそんな俺の思いは伝わらないだろう。
 俺はいつもよりゆっくりした速度で車を走らせた。急ぐ用は何もない。ただ、車で走りたかっただけなのだ。
 灰色の街を少し走ると、湾岸道路に出る。海に向かった大きな美しい橋を渡り、そのまま湾岸沿いに道が続く。思った程車は多くなく、左手の海、右手の山の風景を楽しむことが出来た。港には大きなフェリーボートがまどろんでいる。あれに乗れば、新しい世界へ連れていってくれるのだろうか?
 「はるかな はるかな 見知らぬ国へ 一人で行く時は 船の旅がいい」
 おかしい。昨日から少し俺はセンチメンタルに成り過ぎているようだ。そう思って一人で笑った。
 いくつもの白い橋を渡り、高速道路の終点で下りた。
 人工の島に作られた人工の街を走り抜ける。どこかが間違っているのにも拘わらず、誰もがそれがどこなのか判らない。そしてその間違いに、いつの間にか誰も気付かなくなってしまう。そんな恐ろしさがその人工の街にはあった。俺は急いでそこから逃げようと思った。
 本来の街とその人口の街を繋ぐ橋を渡る。俺は今日いったい幾つの橋を渡ったのだろう?お互いに違うものを繋ぐ橋というものについて、何時かゆっくり考えてみる必要があるようだ。
 とにかく俺はその恐ろしい人工の街から逃れた。そこには昔どこかで見たような、夢だったのかも知れないが、なつかしい、少しだけ空気が薄くて、呼吸が少しだけ苦しいような、そんな港の風景があった。
 埃色になった倉庫が建ち並び、工事中の道がある。人の姿が見えないのにも拘わらず、誰かが、何かが俺に語りかけようとしていた。
 少し走ると湾に注ぐ小川があった。走り幅跳びの選手なら、簡単に飛び越えられそうな幅でしかない。そこに石で出来た橋がかかり、橋の上からだけ海が見えた。海の水は黒くゴミが沢山浮いている。しかし、やはりその海も何かを語りかけていた。それを聞き取れないのは俺のせいだ。
 「何時か必ず聞いてやるから、それまで待っててくれよ」そうつぶやきながらアクセルを踏んだ。
 その先、また高速道路に乗り継いで大好きなその街に着いた。

 市営の駐車場に車を止め、あてもなく歩く。
 この街にも慶子との思い出が沢山ある。
 浜の方では、今はもうなくなってしまったけれど、あの頃、波止場のそばに小さな建売一軒分ぐらいの広さしかない公園があった。メリケン波止場公園。立派な名前の割に、誰からも忘れられたような公園だった。慶子はそんな誰からも忘れられたような場所が好きだったのだ。たいした話をする出もなく、ぼんやりとした光を浴びてブランコを揺すった。彼女は時々幼い子供の様な顔を見せた。
 山の手にもよく行った。細い急な坂道を手を繋いで登る。振り返ると街を飛び越して湾が見えた。異人館なんて言うものが流行る前だったので、観光客など居ない。絵のように止まった風景が俺の中に残っている。そう言えば慶子はあの坂道の途中の喫茶店で、大好きなアァルグレィを良く飲んでいたっけ。少し疲れた、今の俺の年の人が見せるような表情でティーカップを口にはこんだ。どの顔が本当の慶子の顔だったのだろうか。そのどれもが揺れ動くあの年頃の女の人だったのだ。
 もう今はそのどちらの風景も無いはずだ。遠い昔のことなのだから。俺はそんなことを思いながらショッピングセンターを通り抜け、大きな本屋で本を探した。別に読みたい本が決まっていたわけじゃない。ただ、興味の沸きそうな本を探そうと思っただけだ。
 ずらっと並んだ背表紙の中から心に訴えかける言葉を探す。しかし、その沢山の本は俺に何も語りかけてはこなかった。あんなに港の風景が何かを語りかけていたのに、巧く行かないものだ。
 俺は諦めて本屋を出る。そして中華街に行く事にした。

 ここの中華街は横浜のほど大きくはない。正式には南京街だ。アーケードのある商店街の筋を一本海側に下る。入口には中華風の門があり、その前には幾つかの兵馬俑が並んでいる。週末には大勢の人達で溢れ返るその道も、ウィークデイとあってそれほど人はいない。
 俺は目についた店に入り、中国雑貨を物色する。子供の頃の近所の駄菓子屋に迷い込んだような色合いだ。ガラスの中に人形の入ったペーパーウエイトや、毛沢東の写真、色とりどりに縫い取りのされた小物入れなど。どれもそれなりに中国が感じられる。
 『中国』とても興味深い国だ。
 俺は雑貨店を出て、腹が減っていることに気付いた。それでレストランに入って昼食を取る事にした。この辺りならどこで何を食べてもまずいことは、まず無い。

 食事を終えて、すぐそばにあった酒屋で中国ワインを2本買った。それを持ってまた少し歩く。俺は店の外に吊してあったカンフー用の服に目を留め、それを買った。部屋着にするのにとても良さそうだ。
 俺は今日の買い物に満足していた。それに昼食も思ったように美味かった。俺はとても良い気分で自分の街に戻ることにした。

 車でメリケン波止場と山の手を走る。そして、思い出の風景が無くなっている事をしっかり確認してからまた幾つかの橋を越えて俺の街に帰る。天気は雲がどこかへ飛んでいったのか、快晴になっていた。

 俺の街に着いたのは三時を回った頃だった。田中もそろそろ帰っている頃だ。
 俺がノックをして事務所のドアを開けると、田中は「丁度帰ったばかりだ」と言って笑った。
 「ケンジ、昨日のステージ、本当に面白かったよ。また、うちでやってくれないか?」
 「ありがとう。やるのは構わないけど、客は入らないぜ」
 「そうなんだよな。でも、定期的にやってみたいって思ってるんだ。今はどんな奴でも売れてなきゃ客は入んないから」
 「大変そうだな」
 「ああ。売れちまったらもう、うちみたいなところには来なくなるし、売れなきゃ客は入んない。それでいろいろ考えてはいるんだよ」
 「ダンスか?マイムか?」
 「どっちでもいいさ。昨夜のはどっちなんだ?」
 「どっちもだよ」
 「それでいい。若いのとジョイントしてもいいし、全然違うジャンルとセッションしてもいい。月一かもう少し多くてもいいけど、気に入ってずっと来てくれる固定客が出来ればいいって思ってる」
 「さぁ?そんなに巧く行くかどうかは判らないけど、確かに俺なら経費はかからない」
 「そうなんだ。その上、何か人を引きつけるものを昨日のステージで感じたんだ」
 「それはありがとう。でも、もう一度言っておくけど、俺は万人受けはしないぜ。それでもいいんだな?」
 「構わないさ。どうせ、いつもそんなに客は入ってないんだ。お前のスタジオの発表会みたいに使ってもいいから」
 「有難い。大分若い奴等も育って来てるんだ。奴等が客を連れてくるかも知れないし」
 「それはいい。でも、判ってると思うけど、ギャラはそんなに出ないぜ」
 「ああ、良ーく判ってます」
 俺はそう言って笑った。田中も学生の頃の様な顔で笑った。
 田中と俺はもう二十年ほどの付き合いだ。同じ高校で、同じクラス、入学してすぐの時に、丸顔に沢山のニキビを作った奴が、隣の席に座っていた。その時からの付き合いだ。
 「ビールでも飲むか?」田中が言う。
 「いいね」俺がそう答えると奴は自分で冷蔵庫から缶ビールを持ってきた。二人で乾杯をしてそれを飲む。俺は三分の一位一気に飲んで缶を置いた。そして言う。
 「昨日さ、何か昔のことをいっぱい思い出したんだ」
 「昔って?」
 「高校の頃の事さ」
 「そうか」
 「田中、お前、聡がなぜ死んだか知ってるか?」
 「ああ」
 「えっ!お前知ってるのか?」
 「知ってるよ。でも、たいしたことじゃない。要するにあいつは死に憧れてたんだよ」
 「どういう事だ?」
 「女に振られて、生きてるのが嫌になったって言う程度のことさ。それで自殺することで振った女に仕返しをしたんだ」
 「何でお前そんな事知ってるんだ?」
 「俺と聡は同じ中学だったからな。それにその振った娘が、あの時の俺の彼女だった」
 「あの時の彼女って、愛ちゃんか?」
 「いや、その前だ。紀美子って言ってね。でも聡があんな事をした後、頭が変になった。それで彼女はそっち関係の病院に入院して、付き合えなくなったって事さ。それで落ち込んでた時に愛と知り合って、付き合い始めたんだ」
 「そうだったのか。俺、何にも知らなかったよ」
 「そうだろうな。お前はバイクとベースに夢中だったから。授業にもほとんど出なかったしな」
 「ああ。自分でも良く卒業できたって思うよ」
 「俺だってそう思う。それで何で聡のことなんか思い出したんだ」
 「いや、聡のことじゃなくってさ。あの時に付き合ってた女の事だよ」
 「お前バイクにベース、その上女とも付き合ってたのか。まぁ学校なんかに行ってる暇はないわな」
 「当たり!」
 「そう言えば長く付き合ってるけど、お前の女って知らないな」
 「ああ。お前には内緒で付き合う事にしてるんだ。取られちゃたまらないからな」
 「まさか?俺は愛ちゃん命だぜ」
 「それはそうだろう。あの頃からだからもう二十年近く成るんだろう」
 「そうだな。付き合い始めて十年で結婚して、結婚してからもう九年になる」
 「立派なもんだ。俺なんかその間に何人と別れたか分からないよ」
 「お前一度結婚したんだっけ?」
 「ああ、したよ。二十二の時にね。二年持たなかったけど」
 「そうか、まぁお前は結婚には向かないよ。お前は他人の人生に責任を持てるタイプじゃない。妻と子供って言ったって、結局自分以外の人生を背負い込むって事だからな。お前はきっと、ずっと自分の人生に振り回されて生きるんじゃないかな」
 「多分ね。俺の人生まで責任持ってくれる女が見付かったら、結婚してもらうよ」
 「お前がそんなので満足できる訳がない」
 「分からないぜ。最近スゲー女と知り合ったんだ。それもお前の店で」
 「先週の金曜日にか?」
 「そうだ。スゲー金持ちで、会社社長さ。メゾネットタイプのマンションに一人で住んでたよ」
 「お前、惚れたのか?」
 「その時だけはな」
 「そう言うことね。それで昔の女の事なんか思い出してたのか」
 「かも知れない。何か昨日のステージの後でテンションが全然落ちなかったんだ。それで昔デートで良く行った公園へ行ったりしたから」
 「二十年って、あの頃は永遠みたいに思たけど、過ぎてしまったらほんの一瞬でしか無かったような気がするな」
 「でも街は変わってしまったよ。俺、今日神戸へ行って来たんだけど、あの頃の風景なんてもう何処にも無かったぜ。思い出の風景はもう俺の中にしかない」
 「ケンジ、それは違うよ。思い出の風景は、お前とその彼女の中に残ってる」
 「田中、お前らしく無く、詩的なことを言ったな」
 「お前が聡のことを思い出させたりしたからだよ」
 「悪かったな。俺、何にも知らなくって。キツイ事を思い出させたな」
 「気にすることはない。思い出で落ち込むほど若くないよ。それに落ち込むべき事なんて他に山ほど有るからな」
 「例えば?」
 「子供の学校の事だとか、店の事だとか・・・」
 「なるほど。お前は偉いよ。ちゃんと社会人として生きてるんだから」
 「当たり前だ。お前みたいにゲージュツ家には成れないからな。でもな、先週のステージとか、昨日のステージなんか見せてもらって、少しの間だけでも夢を思い出したよ。それこそお前と知り合った頃に見ていたような夢をね。お前、たいしたものだよ」
 「ありがとう。俺ってあの頃から成長してないんだろうな。大人に成り切れないんだ。今まで大人の振りをしてやって来たんだけど、無理だって言うことに最近気付いたんだよ。それで大人になることを諦めた。そうしたら体が動くんだよ。面白いぐらいにな。イメージしたとおりに筋肉が伸び縮みして動いてくれる。もしかしたら今が俺の肉体の最高の時かも知れない」
 「そんなもんなんだ。思ったより体と頭って繋がってるもんなんだな」
 「そうさ。精神の入れ物がこの肉体だからな。中身が歪だと肉体も歪にしか動かないみたいだぜ。でも、このまま老いぼれたら、誰も相手にしてくれないんだろうなって思うよ」
 「しかたないさ。ケンジにはケンジの道しかないんだろう」
 「多分ね」
 俺達は三本づつのビールを空けていた。
 田中が言う。「お前、今日はオフなのか?」
 「ああ」
 「いいな。俺はこれから店を開けなきゃならない」
 「そうだな。長居をしてしまって悪かった」
 「構わないさ。いい話を聞かせてもらったよ。さっきのライブの件、頼んだぜ。また、スケジュールの調整をしよう」
 「分かった。電話してくれよ」
 「ああ、そうする」

 俺はビールの礼を言って事務所を出た。そんなに酔ってはいなかったが、運転するのには少し気が引けた。
 少し街をぶらぶらしてから喫茶店に入った。時間は五時半を回ったころだった。コーヒーを頼んでから、ジュンコの会社に電話を掛け、ジュンコを呼び出してもらった。しばらく電子音のイエスタデーを聞かされた後ジュンコが出た。「もしもし 河合です」
 「俺 ケンジ。夕べはゴメン。今近くの喫茶店に居るんだ。出て来れないかな?」
 「構わないわよ。帰り仕度をしてるところだったから」
 「待ってるよ」
 俺は今居る店の名前を言ってから電話を切った。そして席に戻り、運ばれてきたばかりのコーヒーを飲んだ。ジュンコが来たのは十五分ほど経った後だった。
 「今日はレッスン おやすみ?」彼女が言った。
 「ああ。今日は休養日だ。でも一日外に出てたけどね。そうだ、夕べは悪かった」
 「構わないわ。たいしたことじゃないもの。でもあなた、何話したか覚えてる?」
 「それがさ、中途半端なところで記憶が跡切れてるんだよ」
 「そうでしょう。本当に突然眠っちゃったから。それまで普通に話してたのに、急に黙ってそのままよ」
 「俺、変なこと言ってなかった?」
 「何も変じゃなかったって。本当に普通に話してて、そのままブッって切れちゃったの。電池がだんだん切れていく感じじゃなくて、コンセントを急に引き抜いたみたいな感じ。本当に疲れてたのね」
 「そうみたいだ。でも、自分ではその疲れがなかなか分からなかったんだ」
 「そんなものかも知れないわね。昨日のステージってすごいテンションだったもの。なんかグイグイ引き込まれちゃった。心の奥の方の何か大切なものを、あなたがむりやり引っ張り出して、それを肯定してみせてくれたみたいな感じだったわ」
 「ありがとう。ところでジュンコ、今日はこれから空いてるの?」
 「ええ、空いてますよ。食事でも奢ってくれるのかしら?」
 「ジュンコが嫌じゃなければ」
 「嫌だったらここへ来なかったと思うわ」
 「それもそうだ。じゃあメシ食いに行こう」
 伝票を取って精算する。そして車できていたことを思い出してジュンコに言った。
 「俺、今日車なんだ」
 ジュンコが言う。「ドライブ付きの食事?」
 「ドーナツのドライブスルーがいい?それともハンバーガー?」
 「出来ればフライドチキンぐらいの物は食べたいわね」ジュンコが笑ってそう言った。
 「分かった。取り敢えずドライブだ」

 ビールの酔いはもう完璧に覚めていた。二人は少し距離を取って歩く。それは、ジュンコが俺の部屋を出て行ってから出来た距離だったのかも知れない。でも、そんなに遠くないのが俺には少し心地好く感じられた。

 駐車場に着いて車に乗り込む。
 ジュンコが言う。「あなたらしい色の車ね。まるで良く晴れた日の空の色だわ」
 「そのとおり。エーゲ海の空と海の色みたいだって思ってこれに決めたんだ」
 「相変わらずロマンチストなのね」
 「相変わらずね。そう、人ってそんなに変わらないよ。だってジュンコが出て行ってからまだ一年しか経ってないんだよ」
 「そうね。それにそんなにコロコロ変わる程あなたはやわじゃないわ」
 「誉めてくれたのかな?それともけなされたんだろうか?」
 「どっちでもないわ。ただ感心してるだけ。あなたはいつもあなたでしかない。今はそれでいいような気がしてるけど」
 「どうもありがとう。俺は俺でしかないって言うことだろう?それって嬉しいことのような気がするよ」
 「そうね。あなたがあなたで無くなったら、あなたのダンスを踊る人がいなくなるって言う事ですものね」
 「多分ね」
 俺は車をゆっくり発進させた。

 大きな並木道を少し走り、高速道路に入る。
 「ケンジ 何処へ連れていってくれるの?」
 「海がいいかい?それとも山?」
 「どっちでもいわ。美味しい物が食べられるのなら」
 「OK 任せといて」
 俺は、昼間に通った道をもう一度走る。今度は橋の数を数えながら走った。ジュンコは黙って窓の外の湾の風景を見ていた。その風景は昼間見たのと全く感じが違って、何処か物悲しさを湛えているようだった。
 「大阪の海は 悲しい色やね」何処からかそんな歌声が聞こえそうな感じだ。
 高速道路の終点までで俺が数えられたかぎりでは八つの橋を渡った。古い町と繋がる橋とあの小さな橋を入れて全部で十の橋を渡って神戸に着いた。多分高速の下にはわからない橋が沢山あるのだろうけど、俺に数えられたのはそれだけだった。
 「神戸なのね」ジュンコが言った。
 「いや、未だもう少し走るよ」俺はそう言って車を山に向けて走らせた。

 町中を突っ切って山に向かう。細く曲がりくねった急な坂道を車はいとも簡単に登る。普通の乗用車に比べると、車重の軽いのがこの車の取り柄なのだ。一気に山頂近くまで登りそこにあるホテルの駐車場に車を入れた。
 「着いたよ」
 「ケンジ あなたって本当に欲張りね」
 「どうして?」
 「海と山とが一緒よ」
 「そう言えばそうだ。でも意識してじゃないよ」
 「そう」
 「とにかく食事にしよう」

 俺達はそのホテルのレストランに入り、ボーイに案内されて窓際の席に着いた。
 「何だか本当に久しぶりだ」俺がそう言うとジュンコが微笑んで見せ、言った。
 「本当ね。あなたともう一度こんな所で向かい合うことがあるなんて思っても見なかったわ」
 「もう二度と会いたくないって思って出て行ったんだろう?」
 「そうね。でもそこまで真剣に考えはしなかったわ。ただ、あの状況から逃げ出したかっただけ」
 「そういえば、夕べそんな話しをしてたんだっけ」
 「そうよ。覚えてた?」
 「でも、どうして俺のステージを観る気になったんだい?それも夕べ聞いたっけ?」
 「何となくって言う話をしたわ。本当になんとなくなのよ。たまたま情報誌を読んでたらあなたのステージの記事が載ってたの。それを読んでいるうちに観てみたいって思ったの」
 俺はそれに対して黙って首を傾げてみせる。ジュンコが自分の中で言葉を探しているのを感じ、黙って彼女の言葉が見付かるのを待った。暫く窓の外に目をやりながらジュンコは言葉を探していた。俺は運ばれてきたワインを静かに口に運ぶ。
 ジュンコが窓の外に目をやったまま言った。「自分が好きだった男が、どんな風に変わったのか見てみたいって思ったのかも知れないわね。その記事に『新しいケンジ・カサイを発見』って書いてあったから。私の好きだったケンジのダンスがどんな風に変わったんだろうって思ったの」
 「それでどうだった?」
 ジュンコが俺に視線を戻し、笑って言った。「それはさっき言ったわ」
 「悪いけど、もう一度聞かせてくれないかな?」
 「あなたってホントに誉められるのが好きね」
 「いけないかい?」
 「そうじゃないけど。でも、確かにいいステージだったわ」
 「惚れなおした?」
 「難しい質問だわね。確かに一年前はあなたに惚れていたわ。でもあれから一年間はあなたのことを忘れてたの。それで昨日のステージのあなたは私が好きだったあなたとは繋がっていないように思えるわ」
 「でも、俺は俺でしかない」
 「もちろんよ。でも、一緒に居た頃のあなたと、ステージの上のあなたはやっぱり違うもの。あの頃だって違ってた。スポットを浴びて、最高の輝きを放っているケンジ・カサイは、やっぱり私と一緒に居るただの男としてのケンジとは違ったわ。今、あなたとこうして向かい合って食事をしているけれど、今私にとって目の前にいるのが、ただのケンジかステージで輝いていたケンジ・カサイかって言われたら、後の方かも知れない」
 「昨日のステージを見なければ、俺の誘いに乗ったりしなかったって言うことかな?」
 「それは間違いないわね。まず、あなたに電話することもなかったし、私が電話をしなければあなたから電話がかかることなんて絶対無かったに決まってる」
 「そうだろうね。じゃあ、こう言うのはどうだろう?惚れ直したんじゃなくって、新しい恋をした」
 「どうしても私に恋をさせたいの?」
 「そう。だって俺、ジュンコの事好きなんだ」
 「ケンジ、冗談は止めましょうよ」
 「冗談なんかじゃないよ。確か夕べ言ったような気がするんだけどな。俺、ジュンコのこと好きだったって」
 「そうね、そんなこと言ってたわ。でもあなたは他の彼女もみんな好きだった。それに好きだったって過去形だわ」
 「でも、あの時点で凍結されていて、俺の中ではジュンコを好きのまま止って居るんだ」
 「あなたに嫌われるような別れかたをすれば良かったのかしら?」
 「そうかもしれないね。でも、ジュンコはそうしなかった。あの時のときのことはあれで終り。それで昨日またジュンコは新しい恋をした。いいと思わない?」
 「相変わらずね。何となくただの男だったケンジが蘇ってきそうよ」
 「ゾンビみたいに?」
 「そうね。でも、私ももうあの時みたいに傷つかないわ。少し大人になったのよ。自分の足で歩くことに決めたんですもの」
 「そうそう、夕べはその辺で俺がねたんだっけ?」
 「そうよ。本当に欲しいものを見つけるって私が言ったら、俺だってってあなたが言ってそれで終わり。あなたはもう見つけたのかしら?」
 「いや、まだだよ。でも、何となく判りそうな気がしてるんだ」
 「どう言うこと?」
 「俺は俺でしか無いって言う事がとても大切だったんだ。俺が俺のダンスを踊る。今までだって俺のダンスを踊ってきたつもりだったけど、未だもっと俺の知らない何かがあるんじゃないかっていつも思ってた。それで焦ったり、悩んで落ち込んだりしていた。でも、そうじゃないって言うことが最近判ったんだ。俺に必要なものは、すべて、そしてすでに俺の中にある。だから焦ることもないし気負うこともない。ただ体が欲するように動けばいい。心が欲するように動けば良かったんだ。それに気付いたって言う事かな」
 「それで?」ジュンコがしっかり俺を見据えて言った。
 俺は彼女の視線をしっかり受け止めて言う。「俺はジュンコのことが好きだって言ったんだ」
 「ええ、聞いたわ。それと私があなたに恋をするって言うこととの関係を説明してちょうだい」
 「判った。俺が思うに、ジュンコは俺に恋をしたから夕べ電話をくれたんだ。その部分を認めないとジュンコの本当に欲しいものが見えなくなってしまう。大切な事に目をつぶったままでは、本当のものを見つけることなんて出来ないっていうことさ。ジュンコがその部分を避けている限り、ジュンコの大切なものは見付からない」
 「ご心配いただいてありがとう。でも、確かにそうかも知れないわね。私はあのステージの上のあなたに新しい恋をしたのかも知れない」
 「そうそう、素直に認めちゃえばいいんだよ。だからって言って、何もジュンコの不利になることなんてないんだ。そうすればこの夜景だって食事だって、もっと素晴らしいものに感じられるはずさ。心を自由にすれば、感性が磨かれるんだ」
 「それだけのことであなたはあなたに素晴らしいダンスが踊れたの?」
 「多分ね。だって他に何も変わったことなんてしていないからね。ただ、心を自由にして俺が俺でしかないって言う事を認めただけさ。自分に対して意地悪をするべきじゃない」
 「自分に対して意地悪?」
 「そう。好きなものを好きじゃない振りをするなんて、心にとって、とても意地悪なことだと思わない?」
 「面白い考え方ね。でも、一理あるようにも思えるわ。あの時、あなたの部屋を出る時、本当は引き止めて欲しかったのよ。『行くな。他の女とは別れるから』って言って引き止めてくれるのを待っていたのかも知れない。でも、あなたはそうはしなかった。そうしてもらってもきっと私は出て行ったとは思うけど、少しは気持ちが楽になったかも知れないわ。だって、あなたが引き止めてくれたら、全部あなたのせいなんだって、あなたに責任を被せてしまうことが出来たもの。でも、あなたがそうしなかったことで、それまでの関係も、別れることも、すべてが自分の責任になってしまったの。だから、余計に私の中であなたが終わらせられなかったの知れない。あなたがさっき言ったように私の中でもあなたがあの時のまま凍結されていたのよ。私は、自分の責任を見極めて、その凍結されたあなたを乗り越える努力をしたわ。そして一年掛かってそれが出来たって思ったの。それを確認するためにあなたのステージを見に行く気になったのに、行ってみたらあなたは止まってなんていなかった。私が乗り越えたケンジはもうどこにも居ないで、素晴らしいダンサーとしての、ケンジ・サカイが目の前に表れたの。心がぶるぶる震えていたわ。そしてその震えた心があなたと話すことを望んでいたのよ。それでその心に素直に私は電話をした。だから今こうして会っている」
 「それでいいんだよ。何も君は間違っていない。恋をするって素敵なことなんだ。愛し合うことは二人の気持ちが合わないといけないから難しいかも知れないけど、恋をするって言うのは一方的でいいんだから。俺は今その恋心を大切にしたいって最近思ってる」
 「それであなたのダンス、あんなにセクシーだったのね」
 「そう?そんなにセクシーだった?」
 「ええ、とっても」
 「最近良く言われるんだよね。もしかしたら今が男としてのピークなのかな?」
 「かも知れないわよ。一生の内で一度ぐらい輝くものだから」
 「今を大切にしておこう」
 「それがいいわ。男三十五歳、一番いい時かも知れないわね」
 「女二十八歳はどう?」
 「さあ?でも、未だ輝ける力は残っているって思うわ。取敢えずあなたが言うように、恋に関しては意地を張るのを止めてみる」
 「それがいいよ。意地っ張りのジュンコも素敵だけど、そればかりだとジュンコ自身の恋が可愛そうだからね
 「どうもありがとう」
 「どういたしまして」
 話しながら食事が進んでいた。ロケーションも最高。料理もそうだ。そして俺の好きな彼女は、俺に恋をしている。いい感じ。
 「ところでジュンコ 君はもう踊らないのかい?」
 「そうね。そういえば私って随分出来の悪い生徒だったわね。勝手にスタジオもやめちゃったし」
 「ジュンコが初めて俺のスタジオに来た時の事とても良く覚えてるよ」
 「どんなだった?」
 「まだ二十二歳だったんだよね」
 「ええそうよ」
 「全然汚れてなくって、とてもクリアーな感じがしたよ。透明感があって、水棲植物みたいな感じがした。体がとても柔らかくて、心がもう少し柔らかくなりさえすれば、いいダンサーになるって思ったよ。
 「でもダメだったわ」
 「そう、思ったより強情なところがあったんだ。でも、それなりに面白い動きを持っていた」
 「でも、あなたは誉めてくれたことなんて無いわよ」
 「まだ俺も若かったからね。今なら手放しで誉めてあげるよ」
 「冗談でしょう?」
 「本気だよ。ジュンコはいい女になった」
 「それはどうもありがとう。きっとあなたとの別れが私を少し大人にしたのよ」
 「じゃあ、俺はいいことをしたのかも知れないな」
 「勝手に言ってなさい」
 「でも本当にもう踊らないの?」
 「ええ、もう体が動かないわ。それに、表現したいものがまだ見付からないの」
 「そうか。勿体ないね。また踊りたくなったらスタジオに来るといいよ。俺の方はいつでもOKだから」
 「そうね。でも、ケンジ・サカイのファンで居た方が楽しいかも知れないわ。たった二時間足らずのステージで、一年間のすべてが飛んで行ってしまったんですもの」

 俺はやっぱり三十過ぎても女を傷つけている。十七、八の頃とたいして変わっていないのかも知れない。昨日思った事は間違っていたのだろう。今なら慶子を傷つけないで済んだのにという思い。きっと今でもやっぱり俺は傷つけてしまうのだろう。慶子が何を求めているのかが分かったところでそれを与えなければ同じことなのだから。昼間田中が言ったように、きっと俺は俺の問題に振り回されて一生を終えるのだ。他の責任まで負えるはずがない。

 テーブルは料理の皿が全部片付けられ、最後のコーヒーが運ばれてきていた。ジュンコは夜景を見ながらそれを飲む。俺はその横顔を見ながら辛かったんだろうなと思った。原因を作った俺だって結構辛かったのだから、それを受けたジュンコは随分傷ついただろう。しかし、時間は巻き戻せはしない。もし戻せたとしても、俺はやっぱりこの女を傷つるだろう。俺が俺以外の道を歩けるはずがないのだ。
 ジュンコの横顔に向かってそっと言ってみる。
 「ゴメン」
 ジュンコが窓の外から目を戻し、微笑んで言った。「何を謝っているの?」
 俺は首を振って言う。「いろんな事にさ。ずいぶんとひどい男なんだってちょっと反省してるんだ」
 「反省?反省して女ぐせの悪いのを直すつもり?」俺は首を振る。
 ジュンコが続ける。「あなたが変われる訳がないじゃないの。あなたが女の人を好きになるのって、おなかがすいたら食べたくなるのと同じ事ですもの。そしてそれがあなたのエネルギーに変わるのよ。でも自分がした事をちゃんと理解するっていい事かも知れないわよ。また同じ事を繰り返したとしても、少しづつは相手が楽になっていくかも知れないもの。多分、あなたの別れた奥さんより私の方が傷は浅くって済んだと思うの。同じ目に遭ってもね」
 「何だか俺って本当に女好きのろくでなしみたいだ」
 「そうよ。でも、すごいステージを作る才能を持ってる。そのどっちもがあなたなのよ。出来れば今度は傷つかない女の人と恋をしなさい。あなたに恋をするなって言うのは無理なんだから。だったら、恋をする相手を選んだ方がいいわ」
 「でも恋って突然やってくるんだ。まるで交通事故のように。事故の相手は選べない」
 ジュンコが大きく首を振って言った。「どうしようもないわね」
 俺は笑顔を作って頷いて見せる。「ウン」
 ジュンコがあきれた顔でそれを見ていた。そして最後には笑い出して言う。
 「困った奴」俺はそれに対して笑ってみせた。
 ジュンコはカップに残ったコーヒーを飲み干して言う。「ねぇ、送ってくれるわよね。こんな所まで連れて来て、ここから一人で帰れなんて言わないわよね」
 俺は首を傾げて言う。「そう言ったらどうするの?」
 彼女は少し考えて答えた。「そうね。ここから一人で帰るのなら、泊っちゃった方がいいわね」
 「俺も少し疲れたんだ。一緒に泊まろうか?」
 「あなたも泊まるのは構わないけど、部屋は別に取るわよ」
 「それじゃ何もならない」
 「どう言うこと?」
 「だから、俺はジュンコが好きだ。そしてジュンコは俺に恋をしている。いい感じじゃない?」
 「ケンジ、私は昨日のステージの上のケンジに恋をしたの。そんな回りくどい口説き方をするあなたにじゃないわ」
 「判ってるよ。言ってみただけさ。ちゃんと送っていくから心配しないで。でも、バーでもう少し夜景をたのしもうか?」
 「あなた、酔っ払い運転になるわよ。もうワインだって一本飲んじゃったし」
 「大丈夫さ。もうそんなに飲まないから。ジュンコが飲むのは構わないし、酔い潰れてもちゃんと送っていくから。ちょっとだけ罪ほろぼしをしようかっていう気分なんだ」
 「なるほど。じゃあ、一番高いのを沢山飲んであげるわ」
 「いいよ。ケンジ・サカイの大切なファンだからね。サービスしとかなきゃ」
 「次のステージの時には大きな花束を持っていきましょうか?」
 「いいね、それ。ステージの上だったらキスしてもいいかな?」
 「そうね。それはきっと光栄なことよ」

 俺達はレストランを出て、上の階のバーに行った。月曜の夜で客はほとんど居ない。一番眺めの良い席に案内してもらい、ジュンコにはドライマティニーを、そして俺にはブランデーのオンザロックを頼んだ。
 運ばれてきたグラスを軽くぶつけて乾杯をする。
 「あなた、本当に酔わないでね」
 「大丈夫だって。俺だってまだ事故ったりしたくないからね」
 「だったらいいけど。でも、あなた私の好きなの覚えてたのね」
 俺は少しおどけて片目をつぶってみせる。ジュンコは細いグラスの足を、きれいに指をそろえて持つ。
 「綺麗な指だ」俺がそうつぶやくとグラスを置いて手を隠してしまった。
 「先週の金曜日に、とても面白い女に逢ったんだ」
 彼女がまたグラスを持って頷く。俺が続ける。
 「田中の店でライブステージをやったんだ。その時の客なんだけど、たった一人でライブハウスでウイスキーソーダを飲んでいた。俺はステージに出て、椅子に座る。それで客のタイミングを計って動き出すという試みだった。俺はじっとすべての筋肉を緊張させて座りながら客席を観察していた。その時その女は、とても丁寧に自分の手を見ていた。ステージから見ていた俺にはその彼女の手が彼女のすべてにみえたんだ」
 「綺麗な人だったの?」
 「ああ、とっても魅力的な女性だった。後で聞いたらその手で仕事をしている人だった。婦人服のデザイナー」
 「そう」
 「ジュンコの指を見ていたらそれを思い出したよ」
 「そうね。私もこの手で仕事をして居るんですもの」
 「電子楽器のデモンストレーターだったわね」
 「ええ、でも今はあまり弾かないわ。使い方の説明がほとんどよ」
 「楽しんでるかい?」
 「さぁ?仕事だから。でも、他に出来ることってないし、したいことが見付かるまではやってるつもりよ」
 「そうだね。必要なものは、必ず手に入るよ。手に入らないものは、必要のないものなんだ」
 「じゃあ、私にとってあなたは必要の無いものだったのね」
 「さぁ?それはまだ判らないさ。だってまだ人生が終わったわけじゃない。それに、手に入れることより、欲しがるって言うことが必要な場合だってあるんだ」
 「手に入らないものを欲しがるだけなの?」
 「そうだよ。何かが欲しい時って、それを求めるためには物凄くパワフルに成れるじゃないか。それが大切な時だってあるんだ。結果として本当に手に入ったらすごい喜びだし、ダメでも、その間にいろいろ学べるからね」
 「あなたって、いつまで経っても私の先生なのね」
 「どういう意味?」
 「学ぶことが沢山あるって言うことよ」
 「そんな事ないだろう?俺はたった一人の女も幸せにできないようなろくでもない男だ」
 「そうね。でも、あなたのダンスは、たった一人の女はだめでも、沢山の女、いや、、沢山の人を幸せにできるかも知れないわよ。それにあなたの体ってとっても綺麗。私の指よりずっとね」
 「その上セクシーなんだろう?」
 「そうよ。綺麗なものの大好きな女の人はきっと放って置かないわ」
 「でも純愛には向かない」
 「純愛に憧れているの?」
 「まさか?好きな女が出て行くのを止められないような男だよ?」
 「そうね。忘れてた。あなたの一番愛しているのはあなた自身だったのよね」
 「そうなのかもしれないね。でも、それももうすぐ卒業できるかも知れない」
 「どうして?」
 「ジュンコが居てくれるから」
 ジュンコは飲みかけていたマティニーを吹き出しそうになった。俺は自分の言ったことがおかしくって、うつ向いて笑いをこらえる。ジュンコは無事にマティニーを飲み込むと、ゆっくりとした口調で言った。
 「ケンジ、あなたタイミングを計って言ったでしょう?」
 俺は笑いをこらえ切れなっくなって吹き出した。
 「ケンジ!」ジュンコの声が怒っていた。
 「悪い、悪い、自分でも、まさかあんなこと言うなんて思わなかったから・・・ゴメン」
 「本当にあなたって言う人は・・」
 「でも、君もびっくりしたみたいだね」
 「もちろんよ」
 「俺だってびっくりしたよ。何かおしりがモゾモゾしてきた」
 ジュンコはウェィターを呼んでお変わりを頼んだ。
 「もうーっ、馬鹿にしてるんだから。潰れるまで飲んでやる」
 「明日も仕事だろう?」
 「構わないわよ。起きられれば行くし、そうでなきゃ休むわ。どっちにしても約束通り送ってちょうだいね」そう言って俺のグラスを取り上げて一気に飲み干した。
 「それ、俺の・・」俺がそう言うと「あなたはもうダメ。ソフトドリンクにしなさい」と言って怖い顔をした。
 ジュンコは結局、俺の半分残っていたブランデーと三杯のドライマティニーを飲んで結構酔った。あの頃から酒はそんなに強い方ではなかったのに、良く飲んだ方だ。

 バーを出て、エレベーターで下に降り、建物を出て、車まで歩く。少し足元のフラつくジュンコを俺がささえようとすると「さわらないで!私は私の足で歩くの」と言って俺の手を振り解いた。
 俺が言う。「一人で歩きたいのなら、そんなに飲まないほうがいいよ」
 「大丈夫よ。転んだところで命に関わったりしないわ」
 俺はその答えに感心した。確かに転んだぐらいでは命に関わらない。軽ければ擦り傷ぐらい、悪くても骨折だ。そのどちらも時間が経てば癒えるだろう。あの傷つきやすい水藻のようだったジュンコがしかりと自分の足で歩き始めているのだ。

 俺はジュンコを助手席に乗せて山を降りる。
 途中で眺めの良い展望台に車を入れると、ジュンコが言った。
 「まるで宝石箱をひっくり返したみたいね。これ、ぜーぶ私の物よ」
 「欲張りな奴」俺がそう言うとジュンコが言い返す。
 「あなた程じゃないわ。それぜーんぶ私の物だって言ったって、誰も傷つかないでしょう?」
 「確かに。でも、俺の欲張りはみんなを傷つけるって言いたいんだろう?」
 「正解!でも、もう私はあなたに傷つけられる事はないわ。私気付いたの。あなたに何かを求めちゃいけないんだって。あなたとの関係を楽しむには、あなたが与えてくれる物だけを受け入れていればいいんだってね」
 「例えば?」
 「そうね。あなたの見せてくれるステージとか、飲ませてくれるお酒とか、楽しい時間をよ。今日は本当にどうもありがとう。とっても楽しい食事だったわ」
 「どういたしまして。俺も嬉しかったよ。ジュンコがとてもしっかりと歩き始めているって言うことが判って。それに、本当は俺の方が惚れ直したのかも知れない」
 「また、驚かすつもり?」
 「違うさ。俺、自分の心をいじめるのをやめたって言っただろう?今の正直な気持ちさ。ジュンコはいい女だって思う。俺が愛したのは間違ってなかった」
 ジュンコは目を閉じて首を振った。そして窓にもたれて言った。
 「眠くなっちゃった。あなた私のマンション覚えてるわよね。着いたら起こしてね」
 「ああ、任せといて。おやすみ」
 俺はそう言ってまた車を走らせた。

 ジュンコも橋を渡ったのだろうか?古い町と新しい町をつなぐ長い橋。一年前のジュンコと今のジュンコ。きっと橋を渡ったのはジュンコではなくて、俺の方なのだ。ジュンコはずっとジュンコのまま歩き続けている。そして少しづつ生きる術を身に付けた。俺はそれを橋を渡ることで一足飛びに見せて貰えたのだ。カズミが言った「あなたは休んでいたわけでも、眠っていたわけでもない。死んでいたのよ。そして見事に蘇った」と言う言葉を思い出した。一度死ぬことで俺の中に橋が架かったのかも知れない。それで夕べから慶子や聡の事を思い出しているのだ。永い時の彼方に封じ込めてしまった想い。それに橋を架ける。どこかが間違っているように思えたあの街。何かをやり残してしまったような青春時代。それに橋を架ける事で、すべてが繋がる。そしてまた新しい未来にもそれは繋がって行くのだろう。
 カズミは「生きてるってとっても楽しいことみたい」そして「生まれるって、悲しいことなのかも知れない」とも言った。きっと悲しいことも楽しいこともたいして変わらないのだ。

 俺はジュンコのマンションの前に車を付け、静かに寝息を立てている彼女を起こす。
 「ジュンコ 着いたよ」
 ジュンコは「ウンッ」と言って静かに目を開けた。そして頭を一振りし、シートから起き上がって言う。「どうもありがとう。迷わずにここまで来れた?」
 「もちろんだよ。このマンションにも昔随分通ったからね」
 「そうね。でもあなたはもうきっと忘れちゃってるって思ってた。だって済んでしまったことをずっと覚えてるタイプだと思えなかったんですもの。でも、今日そうじゃなかったんだって新しい発見をしたわ」
 「そうだよ。俺はずっと過去の思い出を引きずって歩いてるんだ。君を傷つけたこと、他の女を傷つけたこと、みんな引きずっている。でも、そう言う生き方が好きなんだって思うよ。だってその想いが今の俺を作ってるんだからね」
 「きっとね。本当に今日はありがとう。たった一本の電話で、随分得した気分よ」
 「昨日の俺にとっては神の助けだった。また誘ってもいいかな?」
 「さぁ?巧くタイミングが合ったらね。そう、ステージの案内は頂戴ね。きっと花束をもって観に行くから」俺はしっかりと頷いてみせた。
 「じゃあ、おやすみなさい」ジュンコが言う。
 「ああ、おやすみ」俺もそう答えた。
 ジュンコは車を降り、しっかりした足取りでマンションの中に消えた。

 俺はそれを見送ってから車を自分の家へ向けて発進させた。随分永い一日だった。ゆっくり風呂に浸かって、今日買った中国ワインを飲もう。俺はそう思いながら車を走らせた。